ゼロ金利との闘い 植田和男著 2005年12月日本経済新聞社刊

(目次)

まえがき

第1章 マクロ経済・金融情勢 概観

第2章 ゼロ金利周辺における金融政策 鳥瞰図

第3章 1998年から2005年までの日銀(およびFED)の金融政策

第4章 時間軸政策の導入

第5章 学界における金融政策論議と時間軸政策

第6章 時間軸政策の効果の実証分析

第7章 短期金融市場における金融政策の効果

第8章 「失われた10年」のマクロ経済学

第9章 構造問題と金融政策

あとがきに代えて 残された論点、これからの論点

 

【まえがき】

 1998年4月の新日銀法施行から直近(2005年11月)における日本銀行が実施した政策は主に3種類である。特に時間軸政策は、ゼロ金利制約に直面した日本銀行がさらに一段の金融緩和効果を狙って考え出した政策であり、将来の金融緩和の前借といえる。

ゼロ金利政策量的緩和政策両方に含まれる時間軸政策

②ゼロ金利を実現するのに必要な以上の流動性の供給

③非伝統的ともいえるさまざまな資産の購入(P1~2)

 こうした政策の効果が、デフレを早めに終結させるに至らなかったという意味で思ったほどではなかったのは、日本経済の様々な主体が「構造調整」の過程にあったからである。特に金融機関は、株価、地価の下落、不良債権の急増等により、深刻な自己資本制約に直面した。これがしばしば深刻な信用危機、流動性危機につながり、金融システムの金融仲介能力が著しく傷ついた(P2~3)

 

【第1章】

 マネタリーベース(日銀券+硬貨+日銀当座預金)やマネーサプライ(M2+CD、流通現金+銀行預金+CD)が95年後半ごろから増加傾向を示しているのに対し、物価やGDPは緩やかな下落トレンドに入っている。単純なマネタリズムの主張は、この時期の日本経済には当てはまらない(P15~19)

 本来のマネタリズムの主張は、金融政策が経済の攪乱要因にならないためにはマネーの伸び率を一定にするような政策を目指すのがよいとの主張だった(P21)

 マネタリーベースの上昇にもかかわらず名目GDPは低迷を続けたので、1990年代半ば以降流通速度は低下を続けている。経済に出回った貨幣が働かずに滞留し、しかもその度合いが悪化している(P21)

 通常、経済におけるマネーの量が増えると、金利が低下し、これが経済活動を刺激する。しかし1991年から1995年までの金融緩和でオーバーナイト物コールレートは0.5%前後へと低下し、一段の低下余地はほとんどなくなってしまっていた。コールレートを低下させることが金融緩和の出発点だとすれば、1995年後半以降、日銀は金融緩和の手段をほとんど失っていた。いわゆる名目金利のゼロ制約に日銀は直面していた(P21~22)

 加えて、銀行貸出残高の伸び率は1990年頃まで高い伸びを示した後、90年代半ばにかけて伸びを急速に低下させ、1997~98年以降はマイナスの伸び率に終始した。1990年代以降の日本の銀行システムの不安定性の大まかな原因は、資産価格バブル、1980年代の金融規制緩和のあり方等が不動産関連融資を積極化させ、その後の資産価格の低下が借りて、貸し手双方の財務状態を悪化させた。融資は不良債権化し、銀行保有の株式の含み益は大きく減少した。大手行の自己資本比率は8~10%で推移し、ぎりぎりBIS規制を満たすに過ぎなかった。このため彼らには積極的な不良債権処理が困難だった。他方、政府も大規模な公的資本投入への政治的合意をつくれずにいた(P22~23)

 この状況下で、1997~98年の金融危機が発生した。1997年秋に三洋証券がコール市場でデフォルトを起こすと、金融市場には不安心理が広がり、他の金融機関の破綻、リスク・プレミアム、流動性需要の急上昇につながった。1998年秋にもLTCM(米ヘッジファンド)の事実上の破綻に伴う混乱が日本にも波及し、深刻な流動性、信用不安が発生した(P23~24)

 政府は、ようやく銀行システムへのある程度規模の公的資金投入を実施し、危機はいったん沈静化した。しかし、2002年度にかけての株価下落で再び自己資本比率が低下し、金融システムに不安感が広がった。事態の本格的な改善は、2003年のりそな銀行足利銀行の処理、株価、都市圏地価の反転を待たなくてはいいけなかった(P24~25)

 ギリギリの自己資本しか持たなかった銀行は、リスクをとって新しい貸出を伸ばしていく力が不十分であり、金融システムの金融仲介能力は大きく低下した。このため低金利は続いたものの銀行貸出→設備投資というチャンネルでの刺激効果が限られていた(P25~26)

 

【第2章】

(ゼロ金利下での一段の金融緩和政策)(P30~34)

①将来の金融政策ないし短期金利についての予想のコントロール

 将来の金融政策経路について何らかのコミットメント(約束)をすることによって、そうでない場合とは異なった水準に、将来短期金利の予想値、従って現在の短期金利を誘導すること。近い将来の短期金利予想は低下するので、短期から中期ゾーンの金利は低下する。この政策が成功してかなり先の経済は好転するという期待が生まれれば、ある満期から先の長期金利は上昇する(イールド・カーブはスティープ化する)

②特定の資産の大量購入

 ある特定の資産を大量に購入して、その資産価格に影響を与えようとする政策。

 ツイスト・オペ(ある資産購入とともに他の資産を売却)等中央銀行のBSを拡大しないで構成要素間の比率を変える点で、③と異なる。オペ対象資産のリスク・プレミアムに影響を与えようとする試み

中央銀行のBSの規模の拡張

 おおまかにはマネタリーベースを増大させる政策。金利がほぼゼロとなった短期国債を買い続ける政策。

③ー1 高水準のマネタリーベースそのものが、民間部門のPFリバランスを引き起こす

③ー2 ①の政策における期待硬貨を強める

③ー3 貨幣発行益を政府にもたらす可能性

 

 金融システム不安問題や民間金融機関の資本不足に対しては、本来政府によってなされるべきだが、政府サイドの対応の仕組みが整うまでは、中央銀行が民間金融機関への資本注入に実質的に等しいオペレーションを実施する例もある(P35)

 最後の貸し手機能(LLR:Lender of Last Resort)は中央銀行金融危機時に出動を期待されている役割である。債務超過でない金融機関が、金融危機に伴う流動性の枯渇によって倒産をすることを防ぐために、中央銀行が当該金融機関に貸し付けを実施する機能。流動性需要の高まりに対して資金供給増で応じなければ、金利が上昇するリスクがある。よって、金利を政策手段として用いている中央銀行では、この機能は自動的に発動される。万全を期すため、通常は流動性需要の高まり以上に資金供給する(政策金利を引き下げる)という対応がなされることが多い(P36)

 

【第3章】

1998.9.9  無担保コールレート翌日物の0.25%への引き下げ

      ⇔ロシア危機等に伴う世界的な金融不安の高まり、経済情勢悪化に対応

1998.11.13 CPオペ積極活用、臨時貸出制度の創設、社債等の適格担保化

1999.2.12 コールレートを0.15%~できるだけ低めに促す(ゼロ金利視野の緩和措置)

1999.4.9  ゼロ金利継続の合意

 ゼロ金利政策=ゼロ金利+ゼロ金利をデフレ懸念払しょくまで継続するとのコミットメント(時間軸政策)(本書の用語)(P43)

(FEDの金融政策)(P52~54)

2003.6.25 FFレートを1.25%→1.005に引き下げ。「委員会は緩和政策が当分の間(for a considerable period)続けれられるものと考える」(委員会後声明文)

2004.1.27~28 FFレート継続。「辛抱強く緩和政策を続けた上で、その解除に臨む」

2004.5.4 「緩和政策はおそらくゆっくり(整然)と解除されていくだろう」

2004.6.30 FFレート引き上げ開始

テーラー・ルール (P56~57)

 FFレートがインフレとGDPギャップで決まる(規範的な意味を持つ)

 短期金利=インフレ率+均衡での実質金利+α+β

 α:自然失業率-現実の失業率 β:インフレ率-目標インフレ率

 

【第4章】(略)

【第5章】

クルーグマンの議論のエッセンス)(P76~77)

 金利ゼロの世界では、中央銀行がマネタリーベースを増やしても、金利ゼロの資産(マネタリーベース)を金利ゼロの別の資産(国債)とスワップするだけなので何の実体的効果もない。(=単純な一時的な量的緩和は効かない)総需要を金融政策で刺激するためには、実質金利名目金利ーインフレ期待)を下げる必要があるが、金利ゼロの世界では、インフレ期待を起こすしかない。→持続的なマネタリーベースの引き上げが必要である。→将来の物価水準が上昇するという期待が生まれ、現在から将来にかけてはインフレ期待が生まれる

クルーグマンの主張の弱点と修正)(P78)

 持続的なマネーの供給の約束が期待物価水準を上げるという仮定=マネーを供給していれば、いつかは物価水準が上がるという主張に等しい

 現在は投資機会の減少に伴って経済は流動性の罠にあるが、何年、何十年後には新しい投資機会が生まれる。すると将来のどこかで経済は流動性のわなから脱出し、その状態でのマネタリーベースの増加は物価を上昇させるはずだ。よって、未来永劫にマネタリーベースを増やすことを約束すれば、将来の物価水準の期待値、同時に現在から将来にかけての期待インフレ率は上昇する。この結果、実質金利が今日下がり、今日の総需要が刺激される

クルーグマン説の金利的表現)(P79~80)

 流動性の罠を脱した後の金利水準を、通常より低めで推移させるという約束を今することによって、将来の物価水準の期待値を上げるという政策

「金融政策を名目金利の観点から見れば、経済が上昇基調に入り、物価が上がり始めても金利を上げないと約束するだけでよい」(クルーグマン

◎要するに、クルーグマン量的緩和政策は、当初、「量的緩和」として主張されたが、むしろ「金利」をキーワードとして整理したほうが分かり易いということだ。その意味で「時間軸政策」は「量的緩和論」を「金利」で再構築した理論だ

(期待を操作する政策の弱点)(P91~94)

流動性の罠に陥った後では、完全に自力(金融政策)のみではデフレを克服する道具たり得ない

流動性の罠脱出後に「より緩和的スタンス」を採用するという約束を守れば、望ましいインフレ率を超えてインフレ率が上昇するリスクがある

③したがって、①の約束を破る誘因が存在する

 

【第6章】(略)

【第7章】

 第6章、第7章の実証分析によれば、時間軸のコミットメントは、かなりはっきりとした影響を様々な金利に及ぼした。第2章①の政策の有効性を示した。一方、②③政策の有効性ははっきりしない(P130~132)

 マネーの量が増えれば購買力が上がり、支出が増えるというのは単純な誤解である。日銀がオペで流動性を増やすのは、その他の資産(短期国債等)を購入することによってである。これは等価交換であるので、民間の総資産は増大しない。日銀券のほうが短期国債より流動性が高いので通常は支出を刺激する効果がある。しかし、短期金利がゼロになった後でもこの効果が残っているかは疑わしい(P133~134)

 

【第8章】

実体経済の停滞・一般物価の下落・資産価格の下落)(P141)

 実質GDP成長率は、1991~2002年の年平均1%であり、同時期のOECD諸国2.4%等を大きく下回り、実体経済は「停滞」していた

 一般物価の下落率は緩やかなものにとどまっており、消費者物価は1998年のピークからの累積下落率は3%以下である。この緩やかな下落が日本経済停滞の根本的原因とは考えにくい

 この間の資産価格の下落は、東証株価指数や市街地価格指数がピークから70~80%下落するなど、大恐慌時に匹敵するほど深刻である。こうした資産価格の下落が日本の金融システムに深刻な打撃を与え、ひいては一般物価を含む実体経済全体に大きな影響を与えた可能性が高い

(生産性ショックの影響)(P153~156)

 開放経済の小国モデルでは、資本の限界生産性(利潤率)を長期的に低下させるようなショックが発生した場合、株価は瞬時に大幅に下落する。これに伴い投資も下落する。その後は、株価も投資も緩やかに回復過程に入るが、いずれも当初の水準を下回って推移するし、投資は資本減耗をカバーしきれず、資本ストックは減少を続ける。こうした動きがストップするのは、資本ストックが十分減少し、それによって資本の限界生産性が当初の水準を回復したときである

 1990年前後の日本に、何らかの理由で設備投資の期待利潤率or生産性上昇率の大幅かつ持続的な低下が生じたとすると、上記モデルによると、長期間にわたって投資と株価は低迷する

 当初のマイナスの生産性ショックは、次の可能性がある

①戦後続いた欧米経済へのキャッチアップの過程が1980年代のどこかで終了し、それに適していた社会・経済体制の歪みが露呈し、その変革を模索するフェーズに入った

②1980年代後半からの動きが、資産価格だけでなく設備投資の期待利潤率を含めてバブル(過度に楽観的)だった

 

 不良債権問題の深刻さとバブルのピーク時における企業部門の土地保有の程度(総資産に占める土地のシェア)との関係は、不動産業を含めた産業別にみると正の関係にある。資産価格の下落が不良債権問題をもたらしたとする仮説と整合的である(P159~160)

 金融システムの不安定性が実体経済に与えた影響の検出については、債務者のB/Sの悪化が当該企業の設備投資に有意な負の影響をもたらすのみならず、特に社債市場へのアクセスのない企業では、メインバンクのB/Sの悪化も当該企業の設備投資に有意な負の影響をもたらす。B/Sの悪化は、資産価格の下落や不良債権の増加(メインバンク)によって説明される。1990年代中盤以降の銀行貸出の減少は、1997~1998年における銀行の流動性危機とともに、債務者と銀行双方におけるこうしたB/Sの悪化によるところが大きい(永幡・関根2002)(P161~162)

 不安定な金融システムが経済に直接与えた悪影響は、1997~98年のクレジット・クランチ発生の時期に、最も深刻だった。アジア経済危機や1997年における早すぎた金融引締め、1998年のロシア危機が日本の金融危機の引き金となって、いくつかの金融機関が破綻したほか、広く金融市場全体で流動性需要やリスク・プレミアムが急上昇し、既に不良債権問題に苦しんでいた邦銀では資金調達が困難となった。このため邦銀の多くが企業からの資金回収を図り、大企業でさえクレジット・クランチの圧力を体感した。この時期、多くの企業が、年末以降は貸出のロール・オーバーに応じられないとの通告を取引先金融機関から受け、設備投資の削減を迫られている(P164)

 この経験に懲りて、非金融企業は、銀行への依存度を引き下げる行動に出たと見られる。1998年以降、企業部門の資金過不足動向は恒常的に資金余剰となっている。1997~98年の金融危機は、企業に対して過剰債務の危険性を一段と認識させ、債務返済、設備投資抑制の圧力をかけたと見ることができる(P165)

 

【第9章】

 1998年の金融危機時に、社債の発行額が増加している。しかし、その大部分はA格以上の企業のものであり、BB格以下のクラスの企業は、社債を発行することが困難であり、このグループの企業は、取引先銀行の財務状況悪化によって悪影響を被ってきた。米国では、1970年代後半からBB以下の格付け企業の社債(junk bond)発行市場が発達した。1980年代を通じて、1800社がこの市場で資金を調達した(P174~177)

 

【あとがきに代えて】

 日本経済の停滞を長く深刻なものにし、その後の金融政策を難しくしたのは、1997~98年の金融危機である。1992~96年のどこかで抜本的な金融システム対策を実施すべきだった。1997~98年時点でも、ゼロ金利政策量的緩和政策に含まれる時間軸政策は、金融政策としてだけでなく、金融システムが問題を抱える中で流動性危機を和らげる働きをした。そうであれば、せめてこの政策を1998年夏に実施できなかったのだろうか。日銀政策委員会でも、1998年4月~7月に、思い切った金融政策採用の是非が繰り返し議論されている。ゼロ金利への誘導や時間軸政策の採用は、1999年前半になったが、せめて半年早ければとの思いがある(P188~189)

 量的緩和策は、ゼロ金利をインフレ率が安定的にゼロ%以上になるまで続けるという時間軸政策と、ゼロ金利実現に必要な以上の流動性供給を実施する政策の組み合わせである。この政策を止めるのが出口だとすれば、出口を出れば操作目標は金利に戻る。時間軸政策も止めて金利はプラスになる。長期国債買いオペの金額も減らすのが自然な姿だろう(P190)

 2003年10月、日銀は量的緩和策からの出口のタイミングを決める条件を明確化した。出口の必要条件は次の2つだ。

①足元のコアCPIインフレ率の基調的な動きがゼロを上回ること

②将来のインフレ率の見通しがプラスであること

 これらの条件は、2005年末ないし06年の早い段階で満たされよう。その上でどうするかは、中央銀行としてのリスク・マネジメントの問題である。長期的に望ましいインフレ率がゼロよりもかなり上(2%前後)とすれば、インフレ率がゼロ%を越えた後、多少加速して上昇するのはある意味望ましいとも言える。よって量的緩和解除の判断に際しては、若干の辛抱をしても日銀にとって損はない(P192~193)

 出口のタイミングを決めるためには、中期的に望ましいインフレ率はどのあたりか、そこへどのような戦略で近づこうとするのかという点の判断が不可欠である。目標インフレ率を表明すれば足りるわけではない。出口の時点でのインフレ率と長期的に望ましいインフレ率には大きなギャップが存在し、それをどうやって埋めるかという点についての説明が必要である。インフレ率だけに注目を集めすぎるのも、中央銀行として得策かどうかも難しい問題である。こうした点の考察とそれへの対応は、日銀にとって避けて通れない課題である(P194~195)