(目次)
はじめに
第1章 神話の世界 科学的歴史の空白
第2章 「三種の神器」のナゾ 祈りの空白
第3章 民衆はどこにいるか 文字史料の空白
第4章 外交を再考する 国家間交流の空白
第5章 戦いをマジメに科学する 軍事史の空白
第7章 日本史の恋愛事情 女性史の空白
第8章 資料がウソをつく 真相の空白
第9章 先達への本当の敬意 研究史の空白
【第1章】
古代日本は西型国家だった。西の朝鮮半島、中国大陸は、日本に新しい文化や品々をもたらす大事な地域だった。東にある関東は、大和朝廷に実りをもたらさない場所という認識だった(P23~24)
663年の白村江の戦は、当時日本が持っていた朝鮮半島での利権を守るための戦いだったが、新羅・唐の連合軍に大敗し、利権をすべて失った(P25)
固関の儀式:新天皇の即位等朝廷で大きな政治的事件が起きると三関を封鎖。反逆する勢力の京都への侵入を防ぐ目的。近畿より西側には関所がないのは、西側から対抗する勢力が来るとは考えていなかった(P28~29)
三関:愛発関(福井:北陸道)、不破関(岐阜:東山道)、鈴鹿関(三重:東海道)
日本の都市に城壁がないのは、日本国が生まれた700年前後、朝廷に対抗する勢力が日本になかったからではないか。関東や東北の国々は、大和朝廷の優れた文化を目にして、戦いを経ることなく、自然に従属し、降伏したのではないか(P32~35)
明治政府は、日本が万世一系の天皇を頂点にした統治国家であることを強烈にアピールした。結果、日本の天皇は、Emperor(皇帝)の称号を得ている。英国王室はKing/Queenと呼ばれる。英国王室以外のヨーロッパ王室の血統は、古くても18~19世紀前後のナポレオン戦争ぐらいから始まったものが大半(P37~38)
日本は漢字文化圏の優等生(朝鮮、ベトナム)になるより、中国とは形の上だけでも対等な存在、独立国である道を選んだ。日本は、元々大王がいて、その上で天皇を名乗った。中国の皇帝の承認を得る必要はないと判断した(P43)
◎これが正しいかどうかは、朝鮮、ベトナムの状況との比較が必要。
朝鮮やベトナムは、元号を定める権利がなく、中国の王朝が使う元号を使うしかない。日本では、「大化」以降、元号が連綿と続いており、空白の時期はあったが、701年の「大宝」以後、途絶えたことがない(P43~44)
皇紀は、神武天皇が最初に即位した年を元年とした暦で、紀元前660年を元年とする。古来、日本の暦は、十干(甲、乙、丙~癸)と十二支(子、丑~亥)を組み合わせた十干十二支で表していた。讖緯説(緯書)では、その58番目の組み合わせ辛酉は革命の年とされ、60年が21回続いた時の辛酉は大革命が起こるとされた。この説に基づき、明治初頭の歴史学者が、聖徳太子がいた頃の辛酉が大革命の年と結論付け、その前の大革命を神武天皇の即位した年とした。結果、紀元前660年1月1日(太陰暦:太陽暦で2月11日)を紀元節(建国記念日)とした(P44~46)
神話の世界の話を日本の歴史として「建国記念日」とすることはできないので、「建国記念の日(日本の建国をお祝いする日)」とした(P48)
皇国史観とは、日本の歴史は万世一系の天皇を中心として進展してきたとする歴史認識(平泉史学)。マルクス主義的歴史観は、階級的闘争(貴族vs武士、武士vs民衆)として歴史を見る(P49~59)
【第2章】
古来より、日本や天皇を守ってきたはずの仏教の存在が、天皇の代替わりの儀式に一切顔を出さない。中世における日本では、神道より仏教のほうが優勢であり、特に古代・中世においては、神道より仏教のほうが天皇に近い存在だった(お寺の権力、法王等)。「伊勢神宮と天皇家には深い関わりがある」という話はフィクションであり、明治時代に作られた。持統天皇が伊勢神宮に参拝してから千年間、天皇は誰も参拝していない(P64~66)
三種の神器(八咫鏡、 八坂瓊曲玉、草薙剣)は、太平記によると、①北陸にある1セット(戦乱で消失)、②後醍醐天皇から北朝に渡された1セット、③天皇が吉野(南朝)に持って行った1セットの3セットがあった。②は、後村上天皇の軍勢が1352年、京都に突入した際、北朝から南朝に渡った。1392年、後亀山天皇(南朝)が京都に赴き、後小松天皇(北朝)に南朝にあった三種の神器を渡し、後小松天皇を正式な天皇と宣言したことで、以降、後小松天皇が正式な天皇と認識された。これ以降、三種の神器は1セットだけとして現代に伝わる。しかし、この時渡された三種の神器が②、③のどちらだったかは不明(P66~77)
インド仏教のベースは、輪廻転生であり、命は次々に生まれ変わる。(祖先は墓の中にいない)日本の仏教では、祖先は墓の中に眠るとする。日本人は、中国仏教(祖先崇拝を仏教に取り込んだ)を受け入れた(P81)
【第3章】(略)
【第4章】
無念の最期を遂げた天皇に対しては、よい名前を贈って怒りを和らげてもらい、怨霊にならないように祈願されてきた(P131~134)
→崇峻天皇(553?~592:暗殺された)、安徳天皇(壇ノ浦の戦い)、順徳天皇(1192~1242:承久の乱)、崇徳天皇(1119~1164:保元の乱)
利根川は、江戸時代に河川改修がなされる前は河口が江戸湾に通じていた。北条氏(鎌倉時代)は、伊豆半島から出発し、相模国→武蔵国→上野国に向かったが、下総国へは進攻しなかった。北条氏(戦国時代)も同じ展開(P135~138)
【第5章】
将軍権力とは、政治と軍事から成り立つものと定義(佐藤進一)政治とは、統治権的な支配権。軍事とは、主従性的な支配権。江戸時代の将軍は、日本全国の国民に対して責任を持っていた。将軍は、日本を統治する権限を天皇からお預かりすると考えられており、総理大臣のようなもの。だから大政奉還では、将軍が政治の権限を天皇へとお返しする宣言が行われた。統治権的支配権とは、日本を政治的に治める権(P147~148)
◎どうなんだろう?将軍権力を「定義」することの意味は、誰を「将軍」と呼ぶかという問いに対する答えにすぎない。すると、そういう答えが出てくるのかもしれないが、それがなんだというのだろう?というのが第1の疑問
◎「将軍は、日本を統治する権限を天皇からお預かりする」というのは、幕末の将軍観であって、各時代に共通する認識ではないだろう。それはもしかして、水戸光圀の大日本史あたりから生じたものではないのか?
◎「日本全国の国民に対して責任を持っていた」との表現は、誰に対する責任なのか?日本国民に対する責任なのか?天皇に対する責任なのか?後者の意味なら「統治権」という表現は適切ではないだろう。単なる「借り物の権力」となる。しかし、統治権は、支配者なら誰でも持っているのではないか?
◎この「将軍」の定義なるものは、国を支配する立場に立つ者が等しく負うべき要素なのではないか?そうでないとすれば、それは天皇と将軍の二重権力性の表現なのか?
将軍には、軍事を動かすためには主従的な支配権と、政治を行うときには統治権的な支配権の両方が必要で、政治と軍事を行うのが将軍である(P151)
◎国の支配者は、常に、軍事的な権力と統治権的な支配権の両方を持っている。当該国内において、圧倒的な軍事力を持っていないと政治的な統治権を行使することはできないはずだ。したがって、この将軍の定義は間違っている。この章は、「将軍が支配者だった」と言っているに過ぎない。
関ヶ原の戦いが終わり、1600年に家康は大坂城に入城。そこで各大名の処遇を決定した。家康と諸大名間に主従関係が結び直された。将軍権力の二元論に基づくと、1600年時点で江戸幕府は成立していたと考えるのが自然(P157~158)
◎時代区分としての江戸時代の始まりは、家康の支配権が成立したときということでいいでしょう。しかし、「幕府」とは、天皇から賦与された「征夷大将軍」の称号を持つ権力者が設立した統治機構と「定義」するのであれば、それは1603年ということになるのではないかな?要するに、言葉の定義の問題。
朝鮮出兵においては、九州エリアの大名に対しては100石あたり5人の兵隊を連れてくるよう命じられた。戦前の陸軍では、40万石で1万人とされたことからすると、倍の徴兵。結果、朝鮮出兵は大失敗に終わり、その国力の低下が豊臣政権の終焉を招いた(P161~162)
江戸城開城の際、西郷は最後まで慶喜に切腹させることにこだわった。当時慶喜は江戸城で謹慎していたので反乱の恐れはなかった。西郷は、大きな戦いでどちらが勝者であるかを見せないと、明治政府は十全な形で発足できないと考えていたからだろう。「慶喜に腹を切らせる必要はない」と主張していたのは、長州藩(桂小五郎、広沢実臣)のほうだった(P169~171)
◎戦いで勝たないと政権が安定しないというのは、歴史が示すところである。ただ、佐賀の乱や西南戦争がそれと同じ理屈だったかは疑問である。それらは敵対勢力の鎮圧というより政権奪取後の政権内での権力闘争だったと位置付けるべきで、それも歴史の中でよくある話だろう。
【第6章】
古記録は、主に貴族や僧侶が行う儀式の詳細が書かれており、人に読ませることを前提にしている(P181)
吾妻鏡は、北条氏が編纂。彼らの先祖である頼朝や時政、義時、さらに関東の武士たちの正統性を内外に示す目的のもの(P184)
富士川の戦いで勝利した頼朝はその勢いで上洛を図ったが、千葉常胤(下総国)、三浦義澄(相模国)、上総介広常(上総国)が、「頼朝が今なすべきは、平家と黒白をつけることではなく、関東に平和をもたらし、関東の武士たちの期待に応えること」と主張し、上洛を止めた。その後、広常は(頼朝の命を受けた)梶原景時に暗殺された(P188~191)
【第7章】
平安時代前期・中期では母方政治(藤原摂関政治)が主流だったが、後期になると父方政治(院政)に変わった。婚姻形態が婿取り婚(招請婚)から嫁取り婚へと変化したのと同時期にだが、因果は不明。一般的には、結婚形態が先に変わり、政治形態に反映されたとされる。しかし、招請婚で母方が重視されるのに、母方系図が存在しない(P206~208)
人類史の最も古い時代における家族形態は、「単婚小家族」が一般的。その後「直系家族」、さらに「大家族」に展開した(エマニエル・ドット:仏)
単婚小家族:子供は全員平等、受け継ぐ財産がない
直系家族:跡継ぎ以外は自立。家から出ていく
大家族:子供は成人しパートナーも一緒に大家族で一緒に住む
招請婚は、単婚小家族から直系家族が定着する間に生まれた想定外のバグにすぎないと考えられる(P217)
ひとたび戦争が起こると、必然的に男が戦いに行く。しかし平安時代は戦いがない時代なので、戦いに重きが置かれなかった。そこで女性が進出し、活躍した。そういう中で日本文化の中心にあったのは「恋」だった(丸谷才一)とされる。実際、平安時代の貴族文化の中心にあるのは和歌だった。これに対し中国の漢詩は、出世の道具だった(P220~223)
【第8章】
坂本龍馬の暗殺は、京都見廻組とされているが、彼らは新撰組以上に幕府の中枢に近い警察組織であり、竜馬が暗殺されたのは大政奉還の1週間後だった。竜馬は大政奉還の推進者であり、その時点では幕府は大政奉還に賛同して動いている。よって竜馬を暗殺する必要がない。薩摩藩は、江戸城総攻撃を企図していたわけで、大政奉還されると戦争の火種がなくなり、幕府を討つ大義名分がなくなる。竜馬は薩摩藩にとって邪魔な存在だった(P243~244)
【第9章】
17C半ば、水戸光圀が「南朝が正統だ」と言い出し、その解釈は水戸学に受け継がれたとされる。しかし、光圀の意図は、「その時点の天皇は北朝の天皇で偽物(だから必ずしも従う必要はない)」ということだった(尾藤正英の仮説)(前期水戸学)
18C後半に始まった後期水戸学(藤田幽谷、藤田東湖(西郷の師匠格)等)は尊王を打ち出し、その思想は勤皇の志士(吉田松陰、西郷隆盛等)に大きな影響を与えた。そのため明治政府は、「正統な天皇は南朝である」との立場に立った。これは、従来の「北朝こそ正統である」との朝廷の常識、及び明治天皇の立場(北朝の子孫)と矛盾することとなった(P268~271)