がんは裏切る細胞である アシーナ・アクティピス著 2021年12月みすず書房刊

(目次)

1 はじめに がん、それは形を得た進化そのもの

2 がんはなぜ進化するのか

3 細胞同士の協力を裏切る

4 がんは胎内から墓場まで

5 がんはあらゆる多細胞生物に

6 がん細胞の知られざる生活

7 がんをいかにコントロールするか

 

【1】

 多細胞生物の体内にある細胞は、分業体制で生活している。細胞同士が協力し、連携しながら、生きるうえで必要な体のあらゆる機能を分担している。単細胞生物(細菌、酵母、原生生物)は、1個の細胞で生命の維持に関わるすべての仕事をこなしている。単細胞生物が支配した20億年間、世界にはがんはなかった。多細胞生物の登場が、地球という舞台に新しい「演者」を招き入れた。それががんである(P1~2)

 がんは私たちの一部である。生命がまだ肉眼では見えなかった頃にまで、がんの誕生はさかのぼる。がんを多細胞生物である以上避けて通れない現象として受け止める必要がある(P2)

 がんは、人体をつくる細胞同士の協力体制を裏切り、多細胞生物として生きるうえで最も基本的なゲームのルールに従わない(P3)

 進化生物学の切り口から考えると、私たちは「協力し合う細胞共同体」となるよう進化してきた。私たちの細胞は、この細胞共同体全体のの生存と生殖に役立つふるまいをするに至った。しかし、細胞の協力体制がうまくいかなくなるとき、進化と生態系に関わるプロセスが体内で始動し、最終的に細胞による究極の裏切り行為へとつながる場合がある。それががんだ。がんとは、細胞が全体のために協力・連携するのをやめたときに生じるものである(P7)

 がん細胞は資源を濫用し、共有のものであるはずの環境を破壊して、無秩序に数を増やし始める。それは自らの属する体の健康を損ない、体が生き延びる見込みを減じかねない。にもかかわらず、体内ではこうした掟破りの細胞のほうが、生存と繁殖において正常な細胞より有利になる(P7)

 私たちの本質は、個々の細胞が集合した存在にすぎない。体をつくり上げる細胞は膨大な数に上るため、体内では自ずと進化のプロセスが起きる。年齢とともに細胞の集団は進化を遂げ、ともすると私たちをがんのリスクにさらす方向へと向かっていく(P8)

 がん細胞も地球上のすべての生物と同じく、自分の置かれた生態系の状況に呼応して進化している。それがときに、自らを含む系全体に害を与える方向に進むというだけのことにすぎない。その結果、一見矛盾する2つの進化シナリオが立ち現れる。

①生き残るうえでは、がんをうまく抑制できる体が有利だということ

②体の内側では、がんのような特徴(増殖速度の速さ、代謝の高さ)をもつ細胞が生存と繁殖において有利になること(P8)

 生物は長く生きて多くの子を残すために、長い時間をかけてがんを抑制する方法を発達させてきた。しかし、このがん抑制メカニズムは完璧ではない。進化の見地からすると、がん化の恐れのある細胞を100%制御するのは不可能だからである(P11)

 生物ががんを完全に抑え込む進化をしてこなかった理由は多岐にわたる。

①子孫を残すうえで有利になる別の形質とトレードオフになっている

②過去の環境と現在の環境のミスマッチ

③私たちの体をどれだけ大きくするかを巡って、父親からの遺伝子と母親からの遺伝子が胎内で攻防を繰り広げている 

 細胞が体細胞進化を通じて体内で進化しているにもかかわらず、体のほうはその体細胞進化のプロセスを完全に抑制する進化を遂げることができない。がんが存在するのは、この2つのレベルで進行する2つの進化のプロセスがうまく噛み合わないところに原因がある(P12)

 一個の腫瘍の周囲にある環境を「腫瘍微小環境」と呼ぶ。これはその腫瘍にとっての生態系に等しい。微小環境が破壊されるとがん細胞には移動を促す選択圧がかかる。それに呼応してその場を離れ、体内のよりよい環境に移ることのできる細胞が生き残り、多くの子孫細胞を残す。こうして、がん細胞が浸潤性と転移性を獲得する方向に進化の拍車がかかる(P12~13)

 がんは一般的な意味での「敵」とは違う。よく組織された同質な細胞の軍団が、宿主を破壊すべく一致団結しているわけではない。むしろ統制の取れていない雑多な細胞の集まりが、私たちの治療に激しく反応している。私たちは、実際には人間の手では如何ともしがたい進化というプロセスと闘っている。それを遅らせたり、道筋を変えたりすることはできるかもしれない。しかし進化自体を止めることは不可能である(P14)

 

【2】

 1個のがん細胞の世代時間(1個の細胞が分裂して2個になるまでの時間)は非常に短く、たいて1日ほどにすぎない。しかも数十億個という単位の巨大集団であるため、進化は極めて速いスピードで進む。1人の人間の一生の間に繰り広げられる細胞の進化の数は、人類の進化の歴史全体を通して生じたものより多い(P20~21)

 進化の果てに滅びる生物がいるように、がん細胞の集団も体内で進化した挙句に、進化の袋小路に入り込む。(進化的自殺)もっとも、がん細胞が必ず進化の行き止まりに突き当たるわけではない。がんは個体から個体へと移って集団全体に広がる場合もある(感染性がん)(P21)

 がん細胞の集団が自然選択によって進化するためには、①多様性、②遺伝可能性、③適応度の差が必要である。ヒトはたった1個の細胞から出発し、分裂を繰り返して30兆個の細胞が体をつくりあげる(P22)

 多様性は、①複製プロセスでのエラーや、②紫外線や化学物質による遺伝子変異、③エピジェネティクス(遺伝子のオン・オフの制御を行うメカニズム)の多様性に由来する。個々の細胞内で、DNAはヒストン(微小球状タンパク質)に巻き付いており、DNAのどこか1か所でこの巻き付きが緩むと、そこから遺伝子の情報を読み取ってタンパク質をつくれるようになる。別の箇所で巻き付きがきつくなると読み取り作業が行われずタンパク質も製造されない。こうしたエピジェネティクス的な差異があるからこそ、細胞のふるまい方が異なってきて、役割の違いが生まれる(P23)

 遺伝子の多様性とエピジェネティクスの多様性は、遺伝可能である。適応度の差とは、特定の形質を持つ個体が、それをもたない個体より多くの子を残すという概念を表す(P24)

 DNAの塩基配列のうち、分裂の時期を決定する領域に変異が起きて、分裂回数を多くするような遺伝子変異が生じると、その細胞は集団の中で数を増やし、その子孫細胞も過剰増殖の遺産を受け継いでいく。進化生物学では生物の生存や繁殖を助ける形質のことを「適応」という。がん細胞の場合は、①資源の消費速度が速い、②免疫系による捕食を回避する、③体内で急速に増殖する、といった性質が適応となり得る(P24~26)

 1個のがん細胞にとって、私たちの体は、自由に消費できる原材料であり、自らの複製をできるだけ多くつくるために使用していい物質である。免疫細胞は避けるべき捕食者、さまざまな組織や臓器は、新たなコロニーを築くための新世界だ。がん細胞は、宿主を滅ぼさないように自分たちの振る舞いを連携させるすべをもたず、試行錯誤を繰り返しながら一から進化を始める。その結果として適応(増殖速度、代謝の高さ等)を獲得し、それが宿主の生命を脅かす恐れを生む(P28)

 生物は遺伝子を次世代に伝えるために自然選択によってつくられ「乗り物」にすぎない。(リチャード・ドーキンス)自分たちの乗り物の生存能力を高める遺伝子が、次世代で数を増やす。自然選択は「利他的な」遺伝子も好む。利他的な遺伝子には、その同じ利他的な遺伝子を持つほかの乗り物の生存を助ける役割がある。ヒトの場合、利己的な個人だけでなく、自分の血縁者の世話をする個人も自然選択において有利になる得る。がん細胞の場合も、利己的な細胞だけでなく、仲間の細胞に利益を与える細胞が選択される可能性がある(P31)

 利己的な遺伝子という見方には、①それによって利己的な乗り物がつくられるという意味と、②協力的な乗り物がつくられるという2つの側面がある。がんが体内でどう進化するかを明らかにするうえで、この2つの視点が助けになる。がんは本質的に多細胞間の協力を裏切る細胞である。しかし、裏切りが進行している最中に何が起きているかを理解するには、がん細胞同士が協力的なふるまいを進化させていることも重要である(P31~32)

 

【3】

 がんの定義は、多種多様である。がん生物学者、病理医、臨床医、比較腫瘍学者などそれぞれが、がんの異なる要素に着目する。裏切り者の細胞としてがんを眺めると、がんに対する多種多様な見方をまとめ上げることができる。しかも、多細胞生物の進化と協力体制の進化に矛盾が内在することが、がんの性質と関わることが浮き彫りになる。(P36~37)

(がんのホールマークと細胞の裏切りの関係性)(P39)

多細胞間協力原則 裏切りのタイプ   がんのホールマーク

①増殖の抑制   無秩序な増殖    無制限な複製による不死化

                   増殖抑制の回避

                   増殖シグナルの維持

アポトーシス  不適切な細胞生存  細胞死への抵抗

                   免疫攻撃の回避

③細胞外環境   環境の悪化     浸潤能の活性化

④分業      分化の調節不全   (分化の調節不全)

⑤資源の配分   資源の独占     血管新生の誘導

                   細胞エネルギー代謝の異常

【協力理論】

 個体同士が相互作用を繰り返す状況であれば、協力と裏切りの持つ見返りの大きさが変わり、全体として協力のほうが優れた選択肢となる(互恵性)(P41)

 遺伝的な近縁性は、裏切りという問題を解決する助けになる。原初の池の中で生産者同士が集まり、自分たちの中だけでやり取りするような状況下では、その利益はほかの生産者のみに渡る。同様に、細胞集団内の細胞がすべて遺伝的に同一なクローンだったならば、細胞間の協力を司る遺伝子は、血縁選択を通じて、次の世代に広まっていく。細胞のクラスター(小集団)を構成する細胞同士が遺伝的に近いことが協力の進化を容易にし、多細胞生物が誕生するお膳立てを整えた。(P41~43)

 一部の細胞が新しい戦略を試み、分裂しても2つの細胞に分かれずに結合した。やがて、その細胞の塊は個々の細胞が持つゲノムを調節し、仕事を分担する能力を獲得した。こうした分業を通じて、多細胞生物は単細胞生物より格段に効率的な暮らしを送れるようになった。多細胞化は、①捕食を避けられる、②資源の共有・貯蔵によるリスク分散等のメリットもある。ともあれ、自分たちの振る舞いを連携させて集合体として生きることのできた細胞が、生き延びて繁栄した(P44)

 多細胞化は、それを搾取しようとする存在から狙われやすくなる。しかし、私たちの体は1個の受精卵から出発して、概ね遺伝的に同一な細胞で構成されている。だから細胞間の協力をコードする遺伝子と裏切りを抑制する仕組みをコードする遺伝子が存続できる(P45)

【多細胞生物として生きるためのルール】(P47~48) 

①無秩序に分裂してはならない

②集団への脅威となったら自らを破壊せよ

③資源を共有し、輸送せよ

④与えられた仕事をせよ

⑤環境の世話をせよ:老廃物の除去

 慢性骨髄性白血病では、転座(1つの染色体の一部分が別の染色体上に位置を変えること)により、BCR-ABLという融合遺伝子が誕生する。この融合遺伝子はBCR遺伝子のプロモーター部分(遺伝子の転写開始を告げる遺伝子領域)にABL遺伝子が結合している。ABL遺伝子からは、増殖に関わるシグナル伝達に重要なタンパク質がつくられる。このため細胞がこの融合遺伝子の配列を読み取ると、「増殖を続けろ」という指令を受取る。結果的に、この細胞は正常細胞なら増殖しないときでも増殖を続ける(P49)

 TP53は、細胞のDNAが修復不可能なまでに変異したときに細胞死を起こさせる。しかしTP53遺伝子自体に変異が起きてしまえば、DNAに重大な損傷を生じても細胞は生き続けて増殖する。TP53は、がん抑制遺伝子である(P50)

 細胞外環境の維持の関係では、代謝の副産物として乳酸をつくり出す。がん細胞はこの乳酸を細胞外に放出する。すると細胞外基質が分解されて組織構造が破壊され、周囲の組織にがん細胞が浸潤しやすい環境がつくられる(P50~51)

 自然選択は2つのレベルで進行しており、それぞれの起きる空間と時間軸が異なる。①体内の細胞レベルでは、生物の一生という比較的短い時間で自然選択が生じる。②自然界の生物レベルでは、非常に長い時間をかけて自然選択が進む。がんは胎内で進化する。一方、がんを抑制する能力の高い体のほうが生存率が高く子孫を多く残す(P51)

 100人が10のグループに分かれている公共財ゲームに、自然選択による進化の要素を加味すると、個々のグループ内では裏切者が協力者をしのぎ、次世代で数を増やすが、10のグループ全体では協力者の多いグループが拡大し、裏切者の多いグループは縮小する。結局、生物のレベルで見た場合に自然選択で有利になるのは、多細胞間のルールを良く守り、内部の裏切者を見つけて抑制する能力の高い細胞で構成された個体ということになる。より優れたがん抑制メカニズムを持つ個体が選択されて生き残る(P52~54)

 がん抑制遺伝子TP53は、遺伝子ネットワークの中心的な中継点であり、特定の細胞が生物の生存能力を脅かすかどうかを判断している。p53タンパク質を製造することにより、細胞機能の様々な側面から情報を集め、細胞の裏切り(代謝の異常、ゲノムの不安定化、不適切な移動など)の兆候が確認されたら、細胞周期を停止させたり、DNAを修復したり、必要であればアポトーシス(細胞の自死)を誘導したりする(P57)

 第2の防衛線は、周囲からの監視である。細胞は、隣接細胞の遺伝子の発現状況を感知して、異常が起きた形跡がないかを確認している。細胞同士は、「生存せよ」というシグナルを絶えず交し合っており、近くのいずれかの細胞から「気に食わない」とされたら、自死のプログラムを開始することができる(P58~59)

 第3の防衛線は免疫系だ。免疫細胞は、体内を巡回しながら、全身のあらゆる領域に目を配り、異常な遺伝子発現がないかを探している。免疫細胞が標的にするのは「腫瘍抗原」(がん細胞が遺伝子を発現したときに生じるタンパク質)である。腫瘍抗原タンパク質は、正常な細胞周期の乱れ、隣接する細胞との結合が断たれたり、細胞のストレス応答が起きたときにも分泌される(P59)

 がん抑制メカニズムは、がん抑制遺伝子による細胞固有、周囲からの監視、免疫系による監視の三重になっていて、それらが連携してがん細胞予備軍の発見と制御にあたっている(P60)

 私たちの体は、細胞シグナル伝達系という広大な情報処理ネットワークをもち、それを使って多細胞の体の治安を維持している。細胞の内部にもTP53などの遺伝子ネットワークが存在している(P61)

 私たちの細胞は、一種の集合的知性を持っている。体内の細胞は、体温や接触行動を調節しているが、個々の細胞はどれも生物の目標を知っているわけではない。私たちの細胞は、集合的知性を用いて、日々驚異的なレベルの協力を成し遂げ、同時に災いの芽を摘んでいる(P6)

 

【4】

 一見健康そうな細胞でも、100万塩基対あたり2~6個の変異が発見された。これは様々ながんで確認されている変異率に近い(P69~70)

 私たちを生かし続け、健康に成長させ、子どもをつくれるようにしている形質=生殖能力、治癒能力、感染症と闘う能力等と私たちががんにかかりやすいことにはつながりがある(P70)

 胚の発達において細胞の自由度が大きくなりすぎると増殖と浸潤を繰り返す無秩序な細胞の塊となり果てる。逆に細胞の振る舞いが抑制されすぎると、体は神経系も生殖器系もない小さな球のままで終わる。がんの根源となるのはこの細胞の自由度だ。私たちのがん抑制メカニズムは、細胞の振る舞いを制御するのを助け、体細胞進化に待ったをかける(P72~73)

 TP53遺伝子のようながん抑制メカニズムを通して、細胞の自由度を抑え込む力を強くしすぎると、私たちの健康や生存能力が損なわれるおそれがある。健康に生きることを助けてくれる重要な仕組みの多くは、細胞に、がんのようにふるまうことを求める。切り傷の傷を治すには、細胞が増殖し、移動して傷を塞がなければならない(P72)

 発達中の胚は、自然選択が起きる3つの条件(多様性、遺伝可能性、適応度の差)をすべて満たしており、細胞分裂開始から、細胞間には進化のプロセスが始動する。一部の細胞は死に、一部は生き残り、一部は他より多くの子孫細胞を生み出す。それにつれて細胞の集団は変化していく。私たちが正常な発達を遂げられるのは、がん抑制メカニズムが体内で働き始めるからである(P73~74)

 1個の細胞から数十兆個の細胞を持つ成体へと発達を遂げる間、体内ではあなたの生物学上の母親と父親があらゆる細胞の中で静かな闘いを繰り広げている。母親由来の遺伝子の一部は成長の抑制につながる因子(タンパク質)をつくり、父親由来の遺伝子の一部は成長に拍車をかける因子を生み出す。染色体上の遺伝子には、自らが母親と父親のどちらから来たのかを覚えているように見えるものが少なくない(ゲノム刷り込み)この刷り込みはエピジェネティクスを通じて行われる。エピジェネティクスとは、ある種の分子がDNAに結合したり離れたりすることによって、特定の遺伝子の発現を可能にしたり、抑制したりする仕組み。刷り込みのある遺伝子では、母親由来か父親由来かのどちらかの遺伝子からしかタンパク質がつくられない(P78~79)

 親の投資理論では、あなたの生物学的な父親と母親は別個の存在であり、遺伝子の面では全くつながりがない。よって、個を残すうえでの利害は完全には一致しない。ヒトは進化生物学的な見地からすると完全な一夫一婦制ではない。これは母親の資源を巡る対立である。母親からすると、子どもたちが節度をもって公平に分け合ってくれるのが最良である。対して、子どもたちは、他の兄弟が死なない程度にとどめはするものの、自分の取り分をなるべく多く増やしたい。子どもたちが少しでも多くを欲するのは、子孫を残すうえでの父親の利害が働いた結果である(P79~82)

 哺乳類には胎盤がある。胎児が母親の資源を引き出すためだけに用いる使い捨ての器官である。それが母親の子宮内膜に食い込み、成長中の胎児が資源を吸い上げる。遺伝子の面で見ると胎盤は胎児の一部である(P83)

 マウス胚のエピジェネティクスを操作して、父親由来の刷り込み遺伝子のスイッチを切ると、生まれてくるマウスの体は非常に小さくなる。逆に母親由来の刷り込み遺伝子を無効にすると、巨大な胎盤がつくられる(P85)

 父親由来の刷り込み遺伝子が、概して成長を促進する性質をもつということは、その遺伝子が発現するとがんが発生しやすい状況が体内でつくられることを意味するし、後の人生でがんにかかりやすくなることにつながる。胎盤内で増殖と浸潤を促す遺伝子は、後年にはスイッチが切れた状態でいなければならないが、がん細胞の中では再びスイッチがオンになっていることが多い。急速な成長と浸潤性は、細胞レベルで現れるがん特有の表現型である(P85~86)

 発達がすべて完了して成体サイズに到達すると、私たちの組織はメンテナンス・モードに入り、体を維持することだけに注力する。これにより急速な成長に伴うリスクはある程度低減するが、完全には消えない。組織を良好に保つためには細胞増殖の継続が必要だ。細胞は絶えず死滅しているし、傷を治すにも細胞増殖は欠かせない(P89~90)

 未分化だった幹細胞がひとたび特定の種類の細胞に分化し始めると、以後は決まった回数しか細胞分裂を行うことができない。分裂できる回数に制約を設けていることががん抑制メカニズムの重要な一翼を担っている。回数制限は細胞分裂の度にテロメアが短くなることで起きる。テロメラーゼを過剰に生成するマウスは、がんを発症するリスクが高いが、がんで死ななければ通常より長く生きる。テロメアが短いと組織の再生に支障をきたし、老化のスピードが速くなる。代わりにがんのリスクは小さくなる(P92)

 体が「傷を閉じろ」というシグナルを発したら、細胞はこれに呼応してすぐに増殖・移動しなければならない。これはがん細胞が成長して体内の新しい場所にコロニーをつくるときに用いる能力と変わらない。しかもがん細胞は、傷を生じていないのに傷の治癒を促す偽のシグナルをつくり出す(P94~95)

 小児白血病で一番多いのが急性リンパ芽球性白血病(ALL)で、胎児の発達のごく初期段階で、未分化の免疫細胞(未成熟前駆細胞)が増殖しすぎたときに発生しやすい。新生児全体の1%に転座のある前白血病細胞が認められるにもかかわらず、後に実際にALLを発症するのは、そのうちのごくわずかでしかなく、他の要因が関係している。そうした要因の1つが、感染症にかかるタイミングが遅れることだ。ごく幼い時期に感染症を経験しないまま感染力の強い病原体にさらされると、子どもが急性リンパ芽球性白血病(ALL)を発症するリスクが高まる(P97~98)

 私たちががんにかかりやすいのは、成長、組織の維持、傷の治癒、感染症の予防、などの機能や生殖能力とがんが結びついているからである。BRCA1(17番染色体)とBRCA2(13番染色体)の2つの遺伝子は、DNA修復タンパク質をつくるだけでなく、卵母細胞の形成や胚の発達に関わっている。生殖細胞系列(始原生殖細胞卵子精子に至るまでの生殖細胞の総称)の段階でBRCA遺伝子に変異が生じていると、その細胞から生まれる子は生涯の間に乳がん卵巣がんにかかるリスクが高い。ただし、変異の種類によってがんの発症リスクが変わってくるので、臨床の現場での対応は難しい判断が求められるP99~100)

 キスぺプチンはKISS1遺伝子がつくるタンパク質だが、これは胎盤の浸潤を制御するとともに、思春期の開始に重要な役割を果たしている。栄養膜が子宮内膜に浸潤するのを抑制するとともに、血管の新生(胎児に資源を与えるための血液供給を生み出す)を阻害する。一方、乳がんとメラノーマの転移を抑える(P107)

 進化の観点に立ち、できるだけ多く子孫を残すという点からすれば、がんへの防御の最適なレベルは思うほど高くないかもしれない。勝者が配偶相手を独り占めをする状況に近い場合、がんを防ぐ度合いが極端に低い進化を遂げるとの予想をコンピュータモデル弾き出した。がんを防御することが利益につながったのは、外因による死亡率が低く、競争の勝敗が繁殖の成功にほとんど影響しな場合に限られた(P108)

 私たちの体はがんに似た腫瘍を生じるが、それが局所にとどまっている分には、がん抑制メカニズムのおかげで、体の厳重な監視下に置かれている。しかし、腫瘍が抑制を振り切って周囲の組織に浸潤し、体の別の場所に転移するようになると、命に係わる恐れがある(P111)

 がんとは、体内で起きる体細胞進化のプロセスだが、体は体細胞進化や遺伝子変異を相当程度まで許容でき、それを抑え込みながら正常な機能を維持できる(P111)

 私たちは、現代社会の便利さのおかげでカロリー摂取量が多く、座りがちな生活を送っている。かつ発ガン性の化学物質に取り巻かれ、昔より生殖ホルモン値が高い。睡眠も乱れやすい。こうした環境の変化があまりにも短時間で起きたために、ヒトはまだがん抑制メカニズムを改良できていない。がん自体は太古の昔から存在する病だが、現代的な生活習慣のせいで遺伝子の変異率は上昇している(P113~114)

 生物にとって、最適ながんリスクのレベルはゼロではない。がんを完全に封じ込めてしまったら、私たちは子孫を残すうえで手痛い代償を負う羽目になる(P115)

 

【5】

 体が大きいと、そのサイズを達成して維持するためにより多くの細胞分裂が必要になり、その分発がんリスクが上昇するが、生物全体として見たときは体の大きさと発ガンリスクに相関関係が見られない(ピートのパラドックス)(P117)

 生活史(生物個体が生まれてから死ぬまでにたどる経過)理論の枠組みでは、がん抑制メカニズムにどれくらい投資するかが生物の種類によって異なる(P118)

 生物の集団が何世代もかけて進化を遂げていく過程では、外因死亡率(捕食等の外的要因によって命を落とす確率)の高さ、性選択圧(異性を引きつける能力、同性と競う能力によって生殖の成否が大きく左右される状況)の強さ等も抑制と自由のバランスに影響する。この生活史トレードオフによって、生涯における様々な目標(成長、繁殖、生存等)への投資の仕方が変わる(P130~131)

 短期間で成長してできるだけ早い時期に多くの子をつくる生物は速い生活史戦略を採用し、時間をかけて成長して繁殖時期も遅らせる生物は、遅い生活史戦略を採用している。後者は子の数が少ない。戦略自体に優劣はない。何が最適の戦略かは、どんな脅威と機械に直面しているかによる(P131)

 ゾウは、がん抑制遺伝子TP53のコピーを余分にもっており、そのことががん発生率の低さにつながっている。ヒトは両親から1つずつ受け継いだ2つしかない。リー・フラウメニ症候群の子どもは、TP53遺伝子を1つしかもたない。そのせいで、生涯の間にがんを発症する確率は100%近く、複数のがんにかかるケースも多い。患者の細胞に放射線を浴びせると、アポトーシスが起こらず重大な損傷を抱えた細胞が生き続ける。結果、がんのリスクが高まる(P134)

 細胞自由の方向にバランスを傾ける(細胞増殖を促す)遺伝子は、もっとも古くから存在する遺伝子であり、生命が単細胞生物だった頃に生まれた。細胞抑制の方向にバランスをシフトさせる遺伝子は、生命が多細胞へと移行した際に新たに登場した。後者の多くは「ケアテイカー遺伝子(世話人遺伝子)」とも言われ、多細胞生物を健康に成長させるために細胞間の協力を推し進める働きをもつ。これとは別に、「ゲートキーパー遺伝子(門番遺伝子)」は、前二者の中間的存在であり、その役割はシステム全体のバランスを維持することであり、様々な変化に敏感に反応しながら必要に応じて両方の側にシグナルを送っている。この遺伝子は進化の歴史において最も最近登場した(P138)

 感染性がんは、誕生間もない多細胞生物にとって、大きな厄介の種だった。その頃、一部の細胞は自らの細胞集団を構築・維持するのではなく、ほかの細胞集団に侵入して、その協力体制を利用することに特化した。中には、多細胞生物の生殖細胞系列に入り込むのを専門とするものもあった。(生殖細胞寄生)さらに、幹細胞ニッチを侵し、細胞の再生システムを横取りして自らの複製をつくる道を選ぶものもあった(幹細胞寄生)多細胞生物が健康に生存していくためには、こうした侵入者を寄せつけない方法として獲得した適応の中で最も重要なのが自己と非自己を区別する免疫系である。皮膚も免疫系の一翼を担っている(P139~140)

 皮膚のバリアが破られたり、免疫細胞の複製メカニズムが乗っ取られたり、脅威を識別する能力が妨害されたりすると、免疫系に問題が生じる(P140)

 集団の遺伝的な多様性が低ければ低いほど、免疫系の面で非常に近いので、感染性がん細胞の移動が容易になる。加えて、DFTD(タスマニアデビルに発症するデビル顔面腫瘍性疾患)の細胞は、自らのMHC(主要組織適合遺伝子複合体)の発現を減らす。MHCは糖タンパク分子であり、細胞膜を貫通する形で細胞表面に存在し、細胞内で使用されるタンパク質の断片を表面に提示する働きをもつ。この仕組みがあるから、免疫系は自己と非自己を区別できる。DFTD細胞は、MHCをあまりつくらないことで免疫応答を誘発しにくくする(P146)

 ヒトからヒトへの感染性がんの感染は稀である。病気や免疫抑制剤の投与等により宿主の免疫系の機能が低下しているときに、例外的に生じる(P153)

 有性生殖という仕組みも感染性がんのリスクを下げるものだった(仮説)。親の遺伝子と子の遺伝子が同一でないようにすれば、子が親からの細菌やウイルスに感染するリスクが減少する(P154)

 

【6】

 がん細胞は複雑な生態系の中で生き、進化する。生態系(腫瘍微小環境)の要素は4つある。①物理的な組織構造(細胞外基質をつくるコラーゲンや酵素を含む)と、②ほかの細胞(がん性細胞と正常細胞)、③資源(血液由来とほかの細胞由来)、④脅威(免疫細胞等)だ。腫瘍微小環境の状態により、がん細胞の進化や振る舞いの道筋は左右される。がんが悪性度を増すにつれ、がん細胞は資源を使い尽くし、血管の新生を促し、近くの組織内の正常な支持細胞(間質細胞など)を勝手に利用するようになる(P157~158)

 前がん性細胞の集団全体の進化は、環境によって方向づけられ、往々にしてがんに近いふるまいをする細胞のほうが選択されやすい。微小環境によって細胞の遺伝子発現も違ってくる。低酸素環境にある細胞は、低酸素誘導因子(低酸素状態で誘導されるタンパク質)の発現量を増やす。結果的に、細胞はふるまい方を変え、運動性を高めたり、血管の新生を促すシグナル送ったり、自らの代謝を変化させたりする(P158)
 正常な細胞と同じ環境に置かれていれば、がん細胞も正常な細胞のようにふるまえる。正常な微小環境の中では、周囲の細胞からのシグナルによって、正常なふるまいができるような遺伝子発現の状態に保たれる。1個の細胞は、遺伝子変異だけが原因でがん化するわけではない。その細胞を取り巻く環境が鍵を握っている。がんを食い止めるうえで腫瘍微小環境が重要だとする考え方をがんの「組織形成場の理論」と呼ぶ。がんが進展していく間ずっと、遺伝子変異と腫瘍微小環境は互いに影響を及ぼし合い、がんを抑制する方向にも促進する方向にも進む(P158~159)

 前がん性細胞が体内に足がかりを築くのは、たいてい腫瘍の成長に都合のいい微小環境(腫瘍促進微小環境)に取り巻かれているときだ(腫瘍促進微小環境)。当初がん細胞は、腫瘍微小環境内の資源を利用するだけだが、やがて進化を遂げて、新しい能力を獲得し、新しい血管の形成を促して腫瘍の場所まで誘導できるようになる。しかもがん細胞は、周囲の間質細胞を味方にして、成長因子や生存因子を分泌させる(P159~160)

 どんな腫瘍微小環境にも共通するのが慢性炎症だ。がん細胞は進化すると、創傷治癒反応を起こすためのシグナル伝達システムを勝手に使用できるようになる。免疫細胞にシグナルを送り、自分のために増殖因子や生存因子、血管新生因子を産生させる。制御性T細胞は脅威が排除された後で免疫応答を停止させる働きをするが、これを呼び寄せることで、免疫系に殺されないようにする(P160)

 がん細胞は、血流を通して届けられる酸素やグルコース、窒素、リンを必要とするほか、周囲の細胞からの増殖因子と生存因子を必要としている。がん細胞が進化すると、自らの環境内にある正常な支持細胞(線維芽細胞)に対して「傷を治癒する」というシグナルを発する。すると支持細胞は、増殖因子と生存因子を送り返してくれる(P161)

 がん細胞には、急速な成長と細胞分裂を優先するものもあれば、生存に重点を置くものもある。あまり進展していない段階では、がん細胞は資源不足を回避するための戦略を発達させる。初期段階のがん細胞は多量の資源を入手できるのが普通なので、トレードオフ(増殖と生存)の問題に煩わされない。資源の不足に直面したとき、増殖と生存のトレードオフが大きな意味を帯びてくる(P164~165)

 生活史トレードオフは、がんを治療する過程でも重要になるケースが多い。がんの治療は、腫瘍の生態系を変え、がん細胞にトレードオフを迫る環境を生んでしまう。化学療法により周囲の環境に抗がん剤が充満していると、細胞は薬剤排出ポンプを使って毒素を外に排出する。その際細胞のもつエネルギーの半分を費消するので、細胞分裂に当てるエネルギーが減少する(P165)

 胎児では、血管内皮細胞が体中の組織に侵入し、資源を輸送・分配するための血管網を築く。血管は、周囲の細胞が発するシグナルに応じて、成長と変化を繰り返している。傷の治癒が必要というシグナルが伝えられれば、血管内を流れる血流量が増え、新しい血管の形成へとつながる場合もある(P168)

 がん細胞は、血管透過性(血管壁の内外で物質が出入りする性質)を亢進させるシグナルを送ることで、自分のところに流れてくる栄養を増やし、下流の細胞が受け取る量を減らす。がん細胞は協力し合って血管を誘導するシグナルを出し、自分たちのための新しい血管を形成することがある。ただし、がん細胞の協力関係は短命に終わることが多い(P169~170)

 自然界の生態系では、生物が局所的な環境を搾取してしまうと、分散を促す選択圧がかかり(分散仮説)、移動によって新しい環境を見つけて住みつける個体が選択される。がん細胞が浸潤を起こし、とりわけ転移した後では治療は格段に難しくなる。著者のコンピュータモデルでは、かつて考えられていたよりかなり早い段階で細胞が移動性を獲得している可能性が示唆された。進展の初期段階に腫瘍を離れるがん細胞ほど転移に成功しやすい(早期播種)。細胞が運動性を得た結果が明らかになるのは、浸潤や転移の後だとしても、運動性の進化自体は初期段階で起きているかもしれない(P171~172)

 遺伝的に近縁ながん細胞同士が協力することは、がんが進化するうえで重要な役割を果たしている。(著者仮説)(P179)

 がん非幹細胞(有限の分裂能力しか持たないがん細胞)は、腫瘍内細胞の75.99%~99.999%を占める。この種の細胞が遺伝的に近縁な細胞の適応度を高める能力を持っていれば、著者のコンピュータモデルでは細胞集団内で維持される(P179~180)

 社会的昆虫の世界では、繁殖を行うのは一部の個体に限られる。社会的昆虫の社会は厳しい環境に強い。がんが進展していく過程でも、がん細胞は協力なしでは生存できない様々な環境に直面する。(P180~181)

 がん細胞は、しばしばクラスター(小集団)をつくって転移し、その集団が大きいほど転移の成功率が高い。がん進展の後期にはがん細胞のクラスターが血流に乗って循環し、そのクラスターの大きさは血液サンプルを調べて測定できる。患者がどの程度生き延びられるかを、このクラスターサイズが左右し得る。モデルマウスの乳腺腫瘍を使った研究によれば、単独の腫瘍細胞対比でクラスターが転移巣形成に成功する割合が23~50倍だった。(P181~182)

 転移の過程で何が起きているかのモデルは2つある。線形モデルは、腫瘍の進化の後期で転移が生じるとする。並行モデルは、あらゆる転移巣が原発腫瘍に由来することを前提とするが、その時期にはずれがあるとする。しかし、どちらのモデルも最新のデータと一致していない。転移カスケードでは、原発腫瘍から多数の転移巣が生じるが、そこからさらなる転移巣を生むことができるのはその一部にすぎない(P186~187)

 腫瘍の再播種とは、転移巣の細胞が原発巣に戻ってくることであり、いずれのモデルとも合致しない。腫瘍の再播種も転移カスケードの実際の過程も、がん細胞コロニー内で協力が進化していることをうかがわせる(P188)

 大きな原発腫瘍を取り除くと、ごく小さかった複数の転移巣が急激に成長することがある。これは原発腫瘍が栄養を独占することがなくなり、増殖抑制因子を分泌することもなくなるからだ。原発腫瘍が転移巣の増殖を抑える現象は随伴性腫瘍抵抗性と呼ばれ、動物実験でも人間の患者でも広く観察されている(P190)

(運動性と転移の進化論的力学:著者等の論文の主張)(P191~192)

 転移プロセスは一つの選択圧となっており、次の2つの形質を備えたがん細胞コロニーに有利に働いている可能性がある。

①成長と繁殖の段階が明確に分かれた生活史が存在すること

②生活史戦略をもつこと

 コロニーを形成して二次的な転移巣をまき散らす能力の最も高い転移巣が、ほかのがん細胞コロニー(及び単独の細胞)よりも優位に立つ。結果、短期間で新しい環境にコロニーを築いて新たな転移巣を生み出せる集団が生存するうえで有利になる(P192)

 転移した細胞がコロニー単位で独自に進化している可能性がある。がんの進展につれて、コロニーレベルでの転移能力のますます高いものが選択されている可能性もある。協力的な細胞コロニーを有利にするマルチレベル選択ががん進展の過程で働いているのなら、がんが進展するほど治療が難しくなるのはそこに原因があるのかもしれない。コロニー内での協力の結果として転移が起こるのであれば、転移を司る遺伝子が1つも見つかっていないことも、転移に関わる遺伝子経路が発見されていないことも、それで説明がつく(P195)

 転移コロニー間に自然選択が作用することでがんが進展していくのなら、原発腫瘍を切除しても転移カスケードを止めることはできない。がん細胞同士の協力に転移の原動力があるのなら、治療においては転移時の協力的なふるまいや細胞同士の連携を妨げることに注力し、それ以上の増殖や転移を防ぐのが賢明なやり方ではないか(P195~196)

 以上は、コロニー内のがん細胞に協力的なふるまいが見られるのは、細胞同士の協力が自然選択されるからではないかという仮説による。しかし、可能性はほかにもある。①がん細胞の何らかの振る舞いの副産物として協力が生じている(仮説2)

②協力に思えるものは単なる偶然にすぎない(仮説3)(P196)

 微生物叢(マイクロバイオーム)とは、細菌、酵母、ウイルスなど私たちの体内及び体表面にすむ微生物の全体を指す。微生物は腫瘍の内部や周囲でも発見されており、がんを助けるものもあれば、がんを防ぐのに役立つものもある。ヒトのがんの10~20%程度は、特定の微生物叢と関連がある(P199~200)

 プロバイオティクス(腸内微生物叢のバランスを改善するために摂取する宿主にとって有益な微生物)とプレバイオティクス(有益な微生物の増殖を助けたり有害な微生物の増殖を抑制したりする食品成分)を用いることでがんの予防効果が認められると指摘する研究がある(P203)

 NOTCHI遺伝子の変異は、食道がん組織全体の10%だったのに対し、正常な非がん性組織では30~80%に及んでいた。NOTCHI遺伝子の変異をもつクローン増殖は、食道がんから組織を守る働きをしている可能性がある。NOTCHI遺伝子変異のクローン増殖は、組織内で場所をとることによって、TP53変異のクローン増殖が大きくなりにくい状況をつくっているのかもしれない。クローン増殖はすべて悪ではないし、がんの内部で確認される遺伝子変異が必ずがんにつながるという思い込みも禁物である(P204~205)

 クローン増殖ががんを防ぐ場合もあるのなら、予防やリスク分類、治療において、新しいアプローチが開ける。非がん性のクローン増殖をつくり出して、がんの予防、治療後の再発防止に役立てることである(P206)

 遺伝子変異のホットスポットとは細胞にストレスがかかったときにDNAが損傷しやすく、真っ先に変異する傾向があるゲノム領域を指す。多細胞の体は、いくつかのホットスポットをもつ進化を遂げ、それを使ってクローン増殖をつくり出せるようになったのかもしれない。そのクローン増殖が場所を塞ぐことで、もっと危険性の高い遺伝子変異が増殖の足がかりを築けないようにするためだ(P206~207)

 

【7】

 がん治療における最大の問題は、がんが抵抗性を獲得することである。ロバート・ゲイトンビー(アリゾナ大:放射線腫瘍学者)等が開発したがん治療法(適応療法)の狙いは、腫瘍の一掃ではなく、長期にわたる腫瘍のコントロールである。腫瘍負荷(患者体内にある腫瘍組織の総量)を限度以下に抑えつつ、治療に対するがん細胞の感受性を維持することである。結果、同じ薬剤をいつまでも使い続けることができるし、環境(患者の体)へのダメージを拡大させない。(P216~217)

 適応療法では、最初に、腫瘍を小さくするために比較的高用量の抗がん剤を投与する。次に腫瘍を定期的にモニターしながら、その振る舞いに応じた抗がん剤治療を行う。腫瘍サイズに変化がなければ用量も変えない。腫瘍が成長したら、最大用量を超えない範囲で用量を増やし、大きくならなければ用量を減らす。腫瘍のサイズが所定の下限値を下回ったら、再びその一線を超えるまで投薬を停止する。または同用量を維持しつつ、腫瘍が半分サイズになったら投薬を中断する(P217~218)

 ヒトの卵巣がんを移植されたマウスを①標準的抗がん剤治療、②適応療法、③治療なしの3グループに分けた。①標準治療のマウスでは初め腫瘍が縮んだが、数週間で元に戻った。②適応療法では、実験を通して安定していた。(2009年発表のゲイントビー等の研究)ヒトの乳がん細胞を移植したマウスを使った実験でも時間の経過とともに、用量を減らしても腫瘍をコントロールできた。適応療法で治療している腫瘍は、壊死が少なく、血液供給が安定していた。腫瘍細胞の生態環境中の資源と危険度を適応療法が安定させている可能性がうかがわれる。環境が安定しているほど、より遅い生活史戦略をとる細胞が選択されやすい。攻撃性の低い細胞のほうが生存と繁殖において有利になり、がん細胞の協力を促す選択圧も減少しやすい(P218~219)

 ヒトを対象とした研究で、低用量アスピリン1日1錠飲むという形で、非ステロイド性抗炎症薬(NSAIDs)を摂取させたところ、遺伝子変異率が大幅に下がった。他の研究でも、食道がんなどの様々ながんの進展NSAIDsが遅くすることが示されている。これは、NSAIDs細胞が変化率にじかに影響しているのかもしれないし、炎症が減るためにがん抑制メカニズムが効果を発揮しやすくなるからかもしれない(P229)

 がんの多剤抵抗性を逆手にとって、がん細胞に、おとりの薬(代用薬。毒性がない、又は最小限の毒性の物質)を与えて、がん細胞に薬剤放出ポンプを稼働させてエネルギーを使わせることで、がん細胞の拡大を防ぐ方法もあり得る(P230)

 ゲイントビーは、マウスを使って、炭酸水素ナトリウム(重曹)を経口摂取させた。すると腫瘍微小環境の酸性度が低下し、肺、腸、横隔膜への転移巣の数と大きさが大幅に減少した(P231)

 腫瘍に安定した低レベルの資源を与えてやれば、腫瘍はその場にとどまったまま成長を続けてくれる可能性がある。浸潤と転移を促すより好ましい(P233)

 循環中のがん細胞の接着を防いで、クラスターをつくらせないようにできれば、転移の確率を下げられるかもしれない。この種の腫瘍細胞クラスターは、プラコグロビン(接着分子)を用いて固まっており、プラコグロビン値が高いほど、患者の予後が思わしくないという関連性が指摘されている(P239~241)