遺伝子 親密なる人類史(上) シッダールタ・ムカジー著 2018年2月早川書房刊

(目次)

プロローグ 家族

第1部 「遺伝といういまだ存在しない科学」 遺伝子の発見と再発見(1865~1935)

第2部 「部分の総和の中には部分しかない」 

    遺伝のメカニズムを解読する(1930~1970)

第3部 「遺伝学者の夢」 遺伝子の解読とクローニング(1970~2001)

 

【プロローグ】

 世界を根本から揺るがすような3つの科学的概念が20世紀を3等分した。原子と、バイトと、遺伝子だ。3つの概念の最も重要な類似点はその考え方だ。いずれもより大きな全体を構成する基礎的要素であり、原子は物質の、バイト(ビット)はデジタルデータの、遺伝子は遺伝と生物学的情報の基本的な最小限の単位である(P24~25)

 物質も、情報も、生物学も本質的には階層的構造だから、全体を理解するにはその最小の部分を理解することが不可欠だ(P25)

 ここでいうバイトとはより一般的かつ神秘的な概念のことだ。自然界のあらゆる複雑な情報は、「オン」「オフ」の状態についての情報だけを含む個々の情報の総和として描写することができる。あらゆる粒子、あらゆる力の場、さらには時空そのものすら、その機能と意味と存在そのものをイエスかノーかの答え、二者選択、ビッツから引き出している。あらゆる物理的なものは理論上、情報理論的なのだ、バイト(ビット)は人が考え出したものだが、その根拠となるデジタル情報の理論は美しい自然法則なのだ(P25原注)

【第1部】

 1835年、ビーグル号は、ガラパゴス諸島に向かった。そこで、ダーウィンは、多くの小鳥を発見した。1837年春、それらは13種のフィンチであることが判明した。ダーウィンは、すべてのフィンチが共通の祖先の子孫ではないかと着想を得た(P56~59)

 1837年7月、ダーウィンは、いわゆるBノートに、祖先の幹が枝分かれして、その枝がさらに小さな枝に分かれていき、やがて現在の数十の動になるような図を描いた。キリスト教の種形成の概念では、神が絶対的な中心に据えられており、神によってつくられたすべての動物が創造の瞬間に外に向かって放されたとされていた。よって、その発想が、神への冒涜であることをダーウィンも承知していた(P59~60)

 1838年10月、ダーウィンは、人口論(トマス・ロバート・マルサスの匿名の論文)から自然選択という状況のもとでは有利な変異体が生き残り、不利な変異体が死に絶え、その結果、新しい種が形成されるとの着想を得た(P62)

 1855年夏、アルフレッド・ラッセル・ウォレスが、ダーウィンの未発表の説と極めて近い内容の論文を発表した。1858年6月、ウォレスは、ダーウィンに自然選択による進化についての自説の概要をまとめた草稿を送った。両者の説の類似に驚いたダーウィンは、旧友のライエル自分の原稿を送り、ライエルは、両者ともがその発見の功績者として認められる方法を助言し、1858年7月、両者の論文はロンドン・リンネ協会の会合で共同の研究発表として読み上げられたが、聴講者の感銘を得なかった(P64~65)

 1859年11月24日、ダーウィンの「種の起源」がイングランドの書店に並び、1250部の初版が初日に完売した(P65~66)

 自然選択説の成立には一見矛盾する2つの事実が同時に真実でなければならなかった。1つ目は、短いくちばしの「正常な」フィンチがときおり大きなくちばしの変異体を作り出すことで、2つ目は、いったん生まれたら、大きなくちばしのフィンチは自分の特徴を子に伝え、変異体を子孫に定着させなければならないことだ。ダーウィンの理論が機能するためには、遺伝は不変と不定、安定性と多様性という性質を同時に持っていなければならない(P67~68)

 ダーウィンは、父親と母親からの情報が胎児の中で出会い、絵の具のように混じりあうと考えた(パンゲン説)。しかし、もしすべての世代で遺伝形質が融合し続けるなら、どんな変異体であれ、それが交雑によって薄められていくはずだ(フリーミング・ジェンキン:数学者兼技術者:エディンバラ)(P72)

 雑種とは、対立形質のうち、表に現れる優位の性質と、表に現れない劣性の形質の混合物なのだとメンデルは気づいていた。メンデルは1857年から1864年にかけて、何ブッシェルものエンドウマメの鞘をむき、黄色い花、緑色の子葉細胞、白色の花といったような交雑実験の結果を表にしていった。結果には驚くほどの一貫性があった。メンデルの実験結果から、遺伝は親から子へと受け渡される個別の情報の粒子でしか説明できないということだった。1865年2月8日、メンデルはフォーラムで二部構成の自身の論文を口頭で発表した(P82~84)

 1897年、フーゴ・ド・フリース(蘭:植物学者)は「遺伝性の奇形」において、それぞれの形質は1つの情報粒子に制御されていると論じた。1900年春、友人から送られてきたメンデルの1865年の論文の中に自らの疑問に対する答えを見つけたが、その論文は自分の独自性を脅かすものでもあった。慌てたド・フリースは、1900年3月植物雑誌についての論文を大急ぎで出版したが、メンデルの実験については触れなかった(P93~94)

 同年、カール・コレンス(独・植物学者)が、エンドウマメとトウモロコシの雑種についての実験結果を発表したが、書かれていたのはメンデルの実験と全く同じだった。エーリヒ・フォン・チェルマク=ザイゼネック(大学院生)もメンデルの法則を再発見した(P94~95)

 ド・フリースは、オオマツヨイグサの群生から5万個の種子を栽培したが、その過程で800の新たな変異体を発見した。この変異体を彼は「突然変異体」と名付けた。こうした突然変異体こそが、ダーウィンのパズルの欠けたピースに違いなかった。自然発生的な突然変異体の発生と自然選択を組み合わせたなら、ダーウィンの冷徹な進化のエンジンが自動的にかかることになる(P96)

 1883年、フランシス・ゴールトン(ダーウィンの従弟)は「人間の能力とその発達の研究」を出版し、その中で人類を改良する戦略(優生学)について記した。最適な人間を選択的に増やしたならば、自然が無限に長い年月をかけて達成しようとしてきたことを、ほんの数十年で達成できるのではないか。その目的を達成するために、ゴールトンは、強者だけを選択的に交配させることを提唱した(P100,101,113)

 1909年夏、ウィルヘルム・ヨハンセン(植物学者)が遺伝子(gene)という新語をつくった。遺伝子は遺伝情報を運ぶという作用によって定義されていた(P110)

 メンデルの最初のエンドウマメ実験と、裁判所の承認によるキャリー・バックに対する断種手術の間には62年しかない。しかしこの60年という短い時間に。遺伝子は植物学の実験における抽象概念から、社会を統制するための強力な道具へと変貌した(P129)

【第2部】

 1890年代、テオドール・ボヴェリ(独:発生生物学者)は、遺伝子は染色体の中に存在すると提唱した。ボヴェリの仮説は、2人の科学者(ウォルター・サットンとネッティー・スティーブンス)の研究で裏付けられた(P138~139)

 トマス・モーガン(米:細胞生物学者)は、1905年ごろからショウジョウバエを用いた研究を開始した。モーガンはいくつかの遺伝子があたかも互いに連鎖しているかのようにふるまっていることを発見した。遺伝子が物理的に互いに連鎖している。遺伝子は、染色体というパッケージに入っている。遺伝子は、単なる理論上の単位ではなく、細胞の中の特定の場所に、特定の形で存在する物質的な物だった(P139~142)

 モーガンの実験は、同じ染色体上で物理的に連鎖している遺伝子が、一緒に受け継がれることを示した。しかし連鎖には例外がある。ごくまれに、遺伝子が連鎖を解いて、父親由来の染色体から母親由来の染色体に移ることがあり、その結果、青い目をした黒い髪の子供や、反対に、黒い目をした金髪の子供が生まれる。「乗り換え」である(P141~143)

 19世紀末の生物科学の世界では、発生学、細胞生物学、種の起源、進化等がテーマとなっていた。これらの疑問に答えるには「情報」が欠けていた。遺伝子は、こうしたすべての疑問に対する潜在的な回答を一気に提供できた(P149~150)

 1918年、ロナルド・フィッシャー(統計解析分析官、数学者、医学者)は、「メンデル遺伝を仮定した場合に血縁者間に期待される相関」において、それを司る3つか5つの遺伝子の効果を混ぜ合わせたなら、ほぼ完璧に連続した表現型を作り出すことができることを発表した

 テオドシウス・ドブジャンスキー(ウクライナ出身、米:生物学者)は、1943年9月、多様性と選択と進化を1つの実験で説明するために、期待を満たした容器の中に、遺伝子配列がABCとCBAという2種類のショウジョウバエの系統を1対1の比で混ぜて入れ、それらを密封し、1つの容器は低温にさらし、もう1つを室温に置いた。4か月後、寒い容器ではABCが2倍に増え、室温の容器では逆の比になっていた。この実験により、進化の決定的要素が捉えられた。遺伝子配列の異なる変異体を自然に持つ生物集団に温度という選択圧が加わると最も適応力の高い集団が生き残り、最終的に新しい遺伝子構成を持つ集団が誕生した(P155~156)

 個体の形や運命を決定づける遺伝、偶然、環境、変化、そして進化の相互作用の本質は、次のように表現できる。 遺伝型+環境+誘因+偶然=表現型(P158)

 新しい種が誕生するためには、交雑を不可能にする何らかの要因がなければならないが、地理的な孤立はその要因となりうる。(P160)

 自然界では遺伝的多様性が存在することは普通の状態であって、人類優生学者の考えとは異なっており、自然は遺伝的多様性をなくすことを望んでいない。むしろ、遺伝的多様性は生物にとって欠くことのできない蓄えであり、不利益よりはるかに多くの利益をもたらす。①多様性がなければ、生物は最終的に進化する能力を失う。②突然変異も多様性の一つに過ぎない。野生のショウジョウバエの集団では最初から優れた遺伝型というものは存在せず、どの遺伝型のショウジョウバエが生き残るかは、環境及び環境と遺伝子の相互作用で決まる。③優生学者は表現型によって選択しようとするが、個体の表現型が遺伝子と環境、偶然の結果であれば、その方法は間違っている(P161~162)

 肺炎球菌には多糖類でできた滑らかな皮膜を細胞表面にもつS株(smooth)と、表面がざらざらしたR株(rough)があり、S株は免疫系の攻撃を免れている。1920年代初め、フレデリック・グリフィス(英:生物学者)は、病原性のあるS型の菌を加熱して死滅させたものと生きたR型の菌を混ぜ合わせたものをマウスに接種したところマウスは発病して、すぐに死亡した。死亡したマウスでは、R型の菌がS型に変化していた。死滅していたS型の菌の残骸と接触しただけで病原性の因子である滑らかな皮膜を獲得していたのだ(形質転換)。しかもその形質転換した細菌の皮膜は子孫に受け継がれていった。このことの最も簡明な説明は、遺伝情報が化学物質として菌から菌へと受け渡されるというものだ(P166~167)

 1926年冬、ハーマン・マラーが低い線量のX線をあて、交配したところ、新しく生まれたショウジョウバエに数多くの変異体が存在していた。放射線によりショウジョウバエの突然変異率が上がるという結果は、①遺伝子は物質でできていること、②ゲノムの完全なる可鍛性を示していた(P169~171)

 ヘルマン・ヴェルナー・ジーメンス(独:皮膚科医)は、遺伝と環境の影響をほどくため、二卵性双生児と一卵性双生児の比較における一致率に着目した。同じ形質を持つ双子の割合である(P188~189)

 生命とは化学と言えるかもしれないが、科学の特殊な状況だ。生物は、かろうじて起こすことのできる化学反応のおかげで存在している。反応性が高すぎれば、我々は自然発火してしまうだろうし、反応性が低すぎれば、冷え切って死んでしまう(P195~196)

 核酸は、1869年、フリードリヒ・ミーシャ―(スイス:生化学者)が発見したが、昨日は謎のままだった(P196)

 1940年春、オズワルド・エイヴリー(米:細菌学者)は、グリフィスの形質転換の実験の主な結果が正しいことを確かめた。8月初め、エイヴリーは、コリン・マクロードとマクリン・マッカ―ティ(助手)とともに、フラスコ内で形質転換を起こすことに成功した。10月には、滑らかな菌をすりつぶした液に含まれる化学物質のふるい分けをはじめ、さまざまな物質を丹念に分離して、それぞれの物質に遺伝情報を運ぶ能力があるかどうかを調べた。結果、形質転換を止めるための唯一の方法は、菌をすりつぶした液をDNA分解酵素で処理して、DNAを壊すことだった。DNAについてのエイヴリーの論文は、1944年に発表された(P198~200)

 ヘモグロビンAは、四葉のクローバーのような形をしており、うち2つはαグロビン、残り2つはそれとよく似たβグロビンというたんぱく質でできている。これら4つの葉はそれぞれの中心に鉄を含むヘム(化学物質)を1つずつ握っている。ヘムは酸素と結合することができ、4つの葉すべてに酸素が1分子ずつ結合すると、4つの葉がサドル取付金具のように酸素をきつく締めつける。ヘモグロビンが酸素を放出する際には、4つの葉の締め付けが緩む。こうした鉄と酸素の結合と分離(周期的な酸化と還元)によって、酸素は効率的に組織に運ばれる(P205)

 ヘモグロビンは、その形のおかげでそうした機能を果たすことができる。分子の物理的構造が化学的性質を可能にし、分子の化学的性質が生理機能を可能にし、分子の生理機能が最終的に生物学的活動を可能にしている。生物の複雑な働きは、こうしたいくつもの層の重なりとして理解できる(P205~206)

 三次元構造をもつ小さい物体にさまざまな角度から光をあて、できた影を記録することで、一連の二次元イメージから1つの三次元構造が浮かび上がる。X線回析はこれと同じ原理で、分子の世界で分子に光をあてて影(X線の散乱)をつくり出そうとする。ただし分子は液体や気体の形で不規則に動き回っているので動く影しか得られない。そこで、溶液に溶けている分子を結晶化することによって、原子の位置が固定され、影は一定となり、格子状の結晶は規則正しい回析可能な影をつくる。ライナス・ポーリングとロバート・コリー(カリフォルニア工科大)は、この技術を用いて、いくつかのたんぱく質の構造を解明した(P207)

 モーリス・ウィルキンズ(ニュージーランド出身、ロンドン大キングズ・カレッジAD)は、この技術をDNAに応用しようとした(P206~208)

 ロザリンド・フランクリンは、ウィルキンズの研究室に入ったが、両者は敵対関係に入った。DNAを写真に収めるのは難しかった。DNAは水分が含まれているときと、乾いているときで形状が異なり、実験室の湿度の変化によって、緩んだり、縮んだりした。フランクリンは、塩水の中で水素の泡を発生させる独創的な装置を使って実験室の湿度を調節し、DNAの水分量をあげたところ、DNAの繊維は永久に緩んだように見えた。数週間後、彼女は、くっきりしたDNAの写真を撮影できた(P208~211)

 1951年春、ウィルキンズは、ナポリ臨海動物実験所で講演をしたが、最後のスライドにDNAのX線回析の初期写真があり、X線回析という簡単な方法でDNA結晶の三次元構造の解明ができることを示していた。聴講していたジェームズ・ワトソンは、そのことに気づき、マックス・ベルツの研究室(ケンブリッジ大)への移籍を希望した。ベルツは分子の構造を研究しており、彼の研究室に行くことが、ウィルキンズの写真に近づく早道だった。そこにフランシス・クリックがいた。(P212~213)

 1951年4月、たんぱく質のヘリックス構造についてのポーリングの論文が発表された。ワトソンとクリックは、ポーリングの模型はどの原子がどの原子の隣にいたがるかを見極めた結果ではないかということに気づき、これをDNAの構造解明に応用しようとした(P215~216)

 1951年11月21日、フランクリンは、キングズ・カレッジで講演し、その中で、「数個の鎖から成る大きならせん構造」、「外側にはリン酸がついている」など大きな概念的革新について話していた。講演に招待されていたワトソンは、フランクリンの予備的な考えを理解し、大急ぎでケンブリッジに戻り、模型づくりに取りかかった。あのデータから示唆されるのは、鎖は2本か、3本か、4本だった(P217~218)

 1953年1月、ポーリングとロバート・コリーが論文を書き、その暫定的なコピーをケンブリッジに送ってきた。だが、論文に描かれた構造は、何かがおかしかった。ポーリングの模型には、リン酸をくっつけておくためのマグネシウムの「のり」はなく、その構造はかなり弱い結合によってまとまっているとされていた。それはエネルギー的に不安定だった。

 1952年5月2日、フランクリンとゴズリングは、DNA繊維にX線をあて、技術的に完璧な写真を得た。写真にはらせん構造が写っていた。その写真をウィルキンズはロザリンドの許可を得ることなく、ワトソンに見せた。写っていたパターンは、驚くほどシンプルだった(P222~224)

 リン酸の骨格が内側を向いている場合は、塩基(A,T,C,G)は狭い空間に収まらなければならず、お互い同士がうまく嚙み合わなければならなかった。1950年、エルウィン・シャルガフ(コロンビア大:生化学者)は、DNAの塩基は互いに関係しているに違いないと主張していた。彼がDNAを粉々にしてその中の塩基の量を調べてみると、AとCの量、CとGの量がいつも、ほぼ等しかった(P224~225)

 1952年冬、キングズ・カレッジでの研究を調査するための視察委員会がつくられた。ウィルキンズとフランクリンは、DNAに関する自分たちの最新の研究についての報告書を準備し、そこに予備的な測定結果を盛り込んだ。委員会のメンバーだったマックス・ベルツは、報告書のコピーをワトソンとクリックに渡した。1953年2月28日、ワトソンはらせんの内側には異なる塩基同士の対があるのではないかと考え始めた。AとG、CとGはの塩基対はらせんの中心を向いた状態で、簡単に重ねられることに気づいた(P225~226)