(目次)
序章 原油を超える世界最重要資源
第Ⅰ部 半導体の黎明期
第1章 戦後の技術者たち
第2章 トランジスタの誕生
第4章 軍に半導体を売りつける
第5章 半導体を量産せよ
第6章 民間市場は存在するか
第8章 コピー戦略
第9章 日本の経済復興
第10章 どこで半導体を組み立てるか
第11章 ベトナム戦争の誘導爆弾
第12章 太平洋を超えたサプライ・チェーン
第13章 インテルの革命
第14章 チップを載せたスマート兵器
第Ⅲ部 日本の台頭
第15章 成功しすぎた日本
第16章 日米経済戦争
第17章 「最高に熱いハイテク企業」、日本に敗れる
第19章 シリコンバレーとロビイング
第20章 パックス・ニッポニカ
第Ⅳ部 アメリカの復活
第21章 アイダホ州のハイテク企業
第22章 インテル再興
第23章 敵の敵は友 韓国の台頭
第24章 ミードとコンウェイの革命
第25章 コピー戦略の末路
第26章 施行する兵器VS無能
第27章 湾岸戦争の英雄
第28章 日本経済の奇跡が止まる
第Ⅴ部 集積回路が世界をひとつにする
第29章 TSMCの隆盛
第30章 全員で半導体をつくるべし
第31章 中国に半導体を届ける
第32章 リソグラフィ戦争
第33章 携帯機器の市場規模
第34章 アメリカの驕り
第Ⅵ部 イノベーションは海外に
第35章 工場を持つべきか
第36章 ファブレス革命
第37章 モリス・チャンの大同盟
第38章 アップルの半導体
第39章 EUVリソグラフィ
第40章 7ナノメートル・プロセス
第Ⅶ部 中国の挑戦
第42章 中国指導部の方針転換
第43章 半導体の自給自足
第44章 サーバ向けチップを攻略せよ
第45章 台湾の秘宝
第46章 ファーウェイの隆盛
第47章 5Gの未来
第48章 「知能化」する戦争
第Ⅷ部 武器化する半導体
第49章 半導体の支配という土台
第51章 ファーウェイ排除
第52章 中国版スプートニク・ショック
第53章 半導体不足とサプライ・チェーン
第54章 台湾のジレンマ
最後に
【序章】
スマートフォンが機能するにはアップルは数十個の半導体が必要で、各チップがバッテリー、ブルートゥース、Wi-Fi、セルラー・ネットワーク接続、オーディオ、カメラなど、別々の機能を持つ。それらのチップのうち、メモリ・チップはキオクシア(日)、無線周波数チップはスカイワークス(カリフォルニア)、オーディオ・チップはシーラス・ロジック(オースティン)から調達している(P17)
典型的なチップは、アーム社の設計図を使い、カリフォルニア州とイスラエルの技術者チームによって、アメリカ製の設計ソフトウェアを用いて設計される。完成した設計は、超高純度のシリコン・ウェハーや特殊なガスを日本から輸入している台湾の工場へと送られる。その設計は、原子数個分の厚さしかない材料のエッチング、成膜、測定が可能な世界一精密な装置を用いて、シリコンへと刻み込まれる。こうした装置を生産しているのは、オランダ1社、日本1社、カリフォルニア3社の企業だ(P23)
台湾TSMC製のチップは世界シェア37%、2社の韓国企業は世界のメモリ・チップの44%を生産、ASMLは極端紫外線リソグラフィ装置の100%を製造している(P24)
【第Ⅰ部】【第1章】~【第6章】(略)
【第Ⅱ部】【第7章】(略)
【第8章】
ソ連指導部は、コピー戦略が後退への道だと理解していなかった。ソ連の半導体部門は、全体が軍需産業のように機能していた。秘密主義でトップダウン。創造力を発揮する余地はなく、注文にこたえるだけ。コピー戦略のせいで、ソ連は、トランジスタ技術でアメリカの数年後からスタートすることを運命づけられ、ついに追いつくことがなかった(P76~77)
【第9章】
ソニーは、日本の安い人件費から恩恵を受けたが、同社のビジネスモデルの核は、イノベーション、製品設計、マーケティングにあった。盛田のライセンス戦略は、ソ連のコピー戦術とは似ても似つかなかった(P83)
日本のエレクトロニクス産業を発展させることは、アメリカの冷戦戦略の一環だったこともあり、1960年代、アメリカ政府がこの問題で日本政府に大きな圧力をかけることはなかった(P85)
日本はアメリカの太平洋政策の要石である。日本が西半球やヨーロッパと健全な通商関係を築けなければ、共産中国やソ連などに経済的な自活の手段を求めることになろう(P85)
【第10章】
チャールズ・スコープは、ストック・オプション(自社株購入権)を従業員の大半に与えた代わりに、彼は従業員に生産性を最大化するよう厳命した。サンフランシスコの南にある新興半導体メーカーのほとんどは組立ラインに女性を雇っていた。女性のほうが低賃金で労働条件の改善を求めず、半導体の完成品の組立やテストに向いていると考えられていた(P89~90)
半導体の需要が急増するにつれ人手の需要も急増したが、安価な労働力はなかった。結局、フェアチャイルドは、旧香港国際空港(1998年開港)の隣、九龍湾沿いの恒業街に面するサンダル工場にスペースを借りた。シリコン・ウェハーはカリフォルニアでつくられ、最終組立のため香港に出荷された(P90~91)
1960年代中盤、香港の時給25セントという賃金は、アメリカの1/10だったが、アジアでは最高の部類で、台湾19セント、マレーシア15セント、シンガポール11セント、韓国10セントだった。スポークは、華人(移住先国籍を取得した中国系住民)が大部分を占めるシンガポールに進出し、さらにペナン(マレーシア)に工場を開設した(P92)
【第11章】(略)
【第12章】
台湾とアメリカは、1955年以来の条約(米華相互防衛条約)締結国だったが、ベトナムでの敗戦で、安全保障に関するアメリカの約束があてにならなくなった。韓国、台湾、マレーシア、シンガポールなど反共産主義国政府は、アメリカのベトナム撤退で自国が孤立しない保証を求め、また一部の人々を共産主義へと傾倒させる経済的不満を解消するための働き口や投資を求めていた。李國鼎(台湾経済部長)は、テキサス・インスツルメント(TI)がその両方の問題を一挙に解決する糸口になると気づいた(P101)
1968年7月、TIの取締役会は、台湾新工場の建設を承認、1969年8月、同工場で最初の半導体が組み立てられた。1973年、リー・クアンユー(李光耀:シンガポール)は、リチャード・ニクソン大統領に、半導体工場誘致を打診、TIとナショナルセミコンダクターは同国に組立工場を建設した(P103~104)
多くの半導体メーカーがその動きにならい、1970年末までに、韓国、台湾、東南アジアを中心に、世界全体で数万人の労働者を雇った。半導体は、アジア地域におけるアメリカの友好国の経済や政治を一変させた。政治的な急進市議の温床だった都市は、失業状態や自給自足農業から抜け出し、好待遇の工場労働に就きたいと願う勤勉な組立ライン労働者によって様変わりした。1970年代末には、ドミノ倒しのような共産主義への寝返りが起こる代わりに、アメリカとアジアの同盟国の結びつきが一層強いものになった(P104~105)
【第13章】
1968年、ロバート・ノイズとゴードン・ムーアは、自社株購入権が与えられないことに不満を抱き、フェアチャイルドを退社し、インテル(Intel:Integrated Electronics:集積されたエレクトロニクスの意)を創設した。2年後、インテルは最初の製品DRAMを発売した。それまで、コンピュータは磁気コアでデータを記憶していたが、磁気コアのワイヤーやリングの微細化には限界があった。DRAMチップは、電流の助けを借りて1と0を蓄える点で磁気コアと同じだったが、ワイヤーとリングを用いる代わりに回路がシリコンに刻み込まれたので、微細化が可能だった(P106~108)
インテルは、4004(チップ)を発売し、世界初のマイクロプロセッサを謡った。チップ上のマイクロプログラミング可能なコンピュータである(P110~111)
【第14章】
アンドリュー・マーシャル(国防総省のアナリスト)をはじめとする戦略家たちは、ソ連の量的な優位性に対抗するための唯一の策は、より高品質な兵器をつくることだと気づいていた。誘導ミサイルは、ソ連の量的優位性を相殺するだけではない。ソ連は破滅的なコストのかかるミサイル防衛活動に着手せざるを得なくなる。米国防総省が配備予定の3000発の巡航ミサイルへの防衛網は、ソ連政府に5~10年間の期間と300~500億ドルの資金負担を負わせるだろう。それでもソ連に向けてすべてのミサイルが発射された場合、その半数しか破壊できない(P116)
必要とされたテクノロジーは、集積回路を用いた新世代の誘導ミサイル、地球上の任意の地点に位置座標を送信できる一連の人工衛星、次世代のチップを開発する新たなプログラムだ。トマホーク巡航ミサイルは、レーダー高度計を使って地表をスキャンし、それをミサイルのコンピュータに事前入力された地形図と照合するものだが、強力なチップが巡航ミサイルに収まるくらい微細化して初めて実現可能となった(P116~117)
【第Ⅲ部】
【第15章】~【第16章】(略)
【第17章】
マスクとレンズを通して光を照射すると、マスクに描かれた形状が、フォトレジスト(化学薬品)で覆われたシリコン・ウェハー上に縮小して投射される。感光すると、フォトレジストが光と反応し、洗い流せる状態となり、シリコン・ウェハー上に微細な凹みができる。この穴に新しい材料を流し込むと、シリコン上に回路ができる。その後、化学薬品でフォトレジストを除去して、回路がウェハー上に残る(P137)
集積回路は、リソグラフィ、成膜、エッチング、研磨を5~10回、20回繰り返すことで、多層構造が完成する(P137)
【第18章】~【第19章】(略)
【第20章】
1989年、ソニーの盛田明夫は、石原慎太郎との共著で「NOと言える日本~新日米関係の方策」を出版した。アメリカ政府が真の脅威を感じたのは、この本がゼロサム的な日本のナショナリズムを明確にしただけでなく、石原がアメリカを屈服させる方法を見つけていたからでもあった。彼は、中距離弾道段にせよ、大陸間弾道弾のICBMにせよ、兵器としての精度を保証するのはコンパクトで精度の高いコンピュータであり、日本の半導体を使わざるを得ないことを指摘した。この本は、アメリカ中に怒りを巻き起こした(PP163~165)
【第Ⅳ部】
【第21章】
シリコンバレーは、台湾や韓国へと生産をオフショアリングすることで、競争上の優位性を取り戻した。1990年代と2000年代におけるアメリカの比類なき力は、この時代の中核技術であるコンピュータ・チップ分野での優位性が復活を遂げたからこそ実現した(P171)
ジャック・R・シンプロットは、フライドポテト用のジャガイモを機械で選別し、乾燥させ、冷凍する方法を開拓したことで財を築いた。マクドナルドのフライドポテトに使われるジャガイモの半分を供給したこともあった。そのシンプロットが支援したマイクロンは、当初、倒産確実に見えた(P178)
シリコンバレーの大手テクノロジー企業が、日本の猛攻を受けてDRAM事業から続々と撤退する中、シンプロットは、本能的にメモリ市場に参入する絶好のタイミングが来たと悟った。買収する最高のタイミングは、価格が下落し、競合企業がことごとく清算手続きに入っているときだ(P173~174)
パーキンソンと彼の右腕たちは、チップの微細化により1枚のシリコン・ウェハーに詰め込むチップを増やすこと、製造工程の簡素化等によるコスト削減に努めた。マイクロンの従業員にとって、企業を存続させる以外の道はなかった。アイダホ州ボイシには転職先がなかった(P177)
【第22章】
アンディ・グローブは、DRAMチップ販売というインテルのビジネスモデルは終わったことを悟っていた。1981年8月、IBMは新製品PCの発売を発表した。内部にインテル製チップ(マイクロプロセッサ)が入っており、若きプログラマー、ビル・ゲイツが、そのPCのOS用のソフトウェアを書いていた。マイクロプロセッサ市場は当初小さかったが、グローブはこの市場の成長に賭けた(P182~183)
【第23章】
1983年2月、サムソンは半導体製造に進出した。シリコンバレーは、コモディティ化したDRAMではなく、より付加価値の高い製品にアメリカの研究開発活動を集約させつつ、韓国国内でより安価な供給源を見つけることが、メモリ・チップ分野で日本との国際的な競争に勝つための最善策と考えた。インテルは、1980年代にサムスンとの合弁事業契約を結び、サムスン製のチップをインテルブランドのもとで販売した。こうして日本の競合企業たちは価格競争に負け、韓国はメモリ・チップ製造の世界的な中心地のひとつへと成長した(P190~192)
【第24章】
リン・コンウェイは、シリコンバレーの半導体設計者が技術者より芸術家に近いことを知って衝撃を受けた。ハイテクな装置が原始的なピンセットと一緒に使われていた。半導体メーカーは、シリコン結晶上に複雑なパターンをつくり出していたが、その設計手法は、中世の職人技だった。コンウェイとカーバー・ミードは、一連の数学的設計規則を定め、コンピュータ・プログラムによる半導体設計の自動化の道を切り開いた。彼らは交換可能部品のライブラリをつくった。これは半導体設計用のソフトウェア・ツールという産業となった。今日では、すべての半導体メーカーが、3社の半導体設計ソフトウェア会社のいずれかのツールを用いている(PP195~197)
あーウィン・マーク・ジェイコブズとアンドリュー・ビタビは、クアルコム(quality communication:良質な通信:無線通信会社)を設立した。より強力なマイクロプロセッサが開発されれば、より多くの信号を既存の周波数帯に詰め込めるようになると見込んだ(P199)
【第25章】(略)
【第26章】
ソ連が、マイクロエレクトロニクスの進歩をあきらめた瞬間、アメリカの兵器が思考する兵器へと近づいていく一方、ソ連の兵器システムは無能な兵器に留まることが運命づけられた。アメリカは、1960年代初頭に、TI製チップで動く誘導コンピュータをミニットマンⅡミサイルに搭載していたが、集積回路を用いたソ連初のミサイル誘導コンピュータがテストされたのは1971年のことだった(P209)
ソ連のミサイルは標的に向かって一定の飛行経路をたどるよう指示されており、誘導コンピュータは、ミサイルが事前にプログラミングされた経路から逸脱した場合に元の経路に戻すよう調整するだけだった。1980年代のアメリカ製のミサイルは、標的までの経路を自ら計算するようになっていた。1980年代中盤、アメリカの新型MXミサイルの半数必中界は約110mとされたのに対し、同等の攻撃力を持つソ連製ミサイルSS-25は365mだった。1つの都市を破壊するにはそれで十分だったが、核貯蔵庫を破壊するには、ある程度の直撃が必要だった(P209~210)
【第27章】~【第28章】(略)
【第Ⅴ部】
【第29章】
李國鼎(台湾の大臣)は、1985年モリス・チャンを台湾の半導体産業のリーダーとして雇い入れ。1987年、チャンがTSMCを設立。チャンは顧客の設計したチップを受託製造する半導体メーカー(ファウンドリ:半導体チップの製造を専門に行う企業)設立のアイデアを持ち、1976年3月にTI幹部に売り込んだが、黙殺された(P228~232)
チャンは、TIに出資を求めたが断られた。フィリップスを説得し、TSMC株式の27.5%と引き換えに5800万ドルの出資、同社の生産技術の移転、知的財産のライセンス供与を得た(P233)
TSMCの創設は、半導体設計会社に信頼できるパートナーをもたらした。チャンが半導体設計を行わず、製造に専念することを約束したからだ(P235)
【第30章】
1987年、任正非(じんせいひ)がファーウェイ(華為技術:電子機器の商社)を深圳に設立(P237)
【第31章】
リチャード・チャンは、GS、モトローラ、東芝等から15億ドル以上調達して、2000年にSMCI(中芯国際集成電路製造)を創設(P249)
【第32章】
1990年代、次世代半導体に必要な微細化した集積回路をつくるには、波長13.5㎚の極端紫外線(EUV)を実用化するしかなかったが、EUVを大量に生成する方法が見えない状態にあった。1984年、ASMLはフィリップスのリソグラフィ部門をスピンオフして誕生した。当時のASMLには、工場も資金もなかったので、世界中の供給業者から入念に調達した部品を用いてシステムを組み立てることにした。おかげで、キャノンとニコンがすべてを自社でつくろうとしたのに対し、ASMLは、市場から最良の部品を仕入れることができた。また、日米貿易摩擦において、ASMLは中立的存在とみなされ、アメリカ企業は、ASMLをキャノン、ニコンに代わる信頼できる取引先として扱った。フィリップスがTSMCに大規模投資し、自社の製造工程技術や知的財産をTSMCに移転していたことも、ASMLとTSMCの協力関係に好影響を与えた。両社は、パートナーシップを築き、二人三脚で成長を遂げていった(P253~257)
【第33章】
2006年、マックがインテル製チップを取り入れた。その時点で、インテルは、大半のPCにプロセッサを供給し、過去10年間、PCの業界標準であるx86セット・アーキテクチャ(チップの計算方法を司る一連の基本的規則)に基づくチップを生産するインテル以外の唯一の大企業AMDの猛攻をはねのけてきていた(P162~163)
x86セット・アーキテクチャがPCを独占したのは、IBMの初のPCがたまたまそれを使っていたからだ。その後、よりシンプルな新型のチップ・アーキテクチャRISCが開発された。より効率的に計算ができるため、電力消費が抑えられた。1990年代、グローブはインテルのメイン・チップをRISCアーキテクチャに切り替えることを検討したが、最終的に却下した。切り替えには多額のコストがかかったし、インテルの事実上の独占に対する脅威が大きすぎた。コンピュータは、x86を中心として設計されており、インテルはそのエコシステムを支配していた。今日、主要なデータ・センターのほとんどが、インテル製かAMD制のいずれかのx86チップを利用している。(P164~165 )
1990年、アップルとパートナー企業2社は、合弁企業ARMを立ち上げ、RISCを使ったプロセッサ・チップを設計し、その使用ライセンスを販売し、半導体設計会社に購入してもらうビジネスモデルだった。1990~2000年代、ARMはPC分野での市場シェア獲得に失敗したが、バッテリーの節約が不可欠な小型携帯機器で人気となった(P165~166)
インテルは、その市場にさほど注目していなかった。寡占状態にあったCPプロセッサ市場での儲けが大きかったので、ニッチ市場に着目する必要がなかった。結果、携帯型電話市場への市場進出が遅れ、気づいたときは手遅れになっていた。イノベーションのジレンマ(実績ある大企業が、既存技術の改良に注力するあまり、破壊的イノベーションを起こす新興企業に後れを取る現象)の例だ(P166~168)
【第34章】(略)
【第Ⅵ部】
【第35章】
半導体産業は、3つのカテゴリーに分類される(以下P283~284)
①ロジック:スマホ、CP、サーバを動かすプロセッサ
②メモリ
ⅰDRAM:CPの動作に欠かせない一時的な記憶を提供
ⅱフラッシュ(NAND):長期的にデータを記憶
③アナログ・チップ
ⅰセンサー等:視覚信号、音声信号をデジタル・データに変換
ⅱ無線周波数チップ:携帯電話ネットワークと通信を行う
ⅲ制御半導体:機器の電力消費を制御
③のチップは、巧みな設計>微細化
⇒多く(3/4以上)は、180ナノメートル以上のプロセッサ上に作られる
③のチップは、数年おきに過去最少のトランジスタを開発すべく競争する必要がないので、①②のチップ比で1/4の設備投資で済む
【第36章】
エヌビディア(NVDA)は、1993年、サンホセの物騒な界隈にあるデニーズで産声を上げた。ジェンスん・ファン(黄仁勲)、クリス・マラコウスキー、カーティス・プリエムによって創設された(P289)
リアルなグラフィックスを生成するには、画像内の全ピクセルに対して、陰影のようなピクセルの描画方法を指示するシェーダー(プログラム)が必要になる。このシェーダーは画像内の各ピクセルに対して適用され、計算は単純だが無数のピクセルに対して行わなければならない。NVDAのGPUが素早く画像を描画できるのは、ピクセルの陰影処理のような単純な計算を、多数同時に実行するように構成されているからだ(P290)
2006年、高速並列計算がコンピュータ・グラフィックス以外の用途にも活用できると気づいたNBDAは、グラフィックスを一切参照することなく、GPUを標準的なプログラミング言語でプログラミングできるソフトウェア、CUDAを発表し、無償で提供した。CUDAは、NVDAのチップでしか機能しない。結果、NVDAは、計算科学から天気予報まで、並列処理の広大な新市場を開拓した。現在、GPU&CUDAは、人工知能分野が最大の用途となった(P290~291)
アーウィン・ジェイコブスは、クアルコム(QCOM)を立ち上げた。時分割多元接続(複数の通話データを同一の無線周波数で送信)ではなく、通話数データを様々な周波数間で切り替え、利用可能な周波数帯により多くの通話を詰め込む(周波数ホッピングシステム)を現実化させた。QCOMの特許は、根本的なものなので、その特許を使わずに携帯電話をつくるのは不可能だ(P292~293)
【第37章】(略)
【第38章】
ソフトウェアとは、急速に変わっていくもの、あるいは自分が何を求めているのかがまだわからないもの、ハードウェアに組み込む時間がなかったものだ(スティーブ・ジョブズ)。ジョブズには、自分のアイデアのすべてを初代iPhoneのハードウェアに組み込む時間がなかった。ジョブズは、新型iPhoneをリリースするたびに、自身のスマートフォンのビジョンをアップル独自のシリコン・チップに刻み込んでいった。アップルは自社の大半の機器に搭載されるメイン・プロセッサだけでなく、アクセサリを実行する付属のチップまで設計している。アップル製品がスムーズに機能するのは、こうした特殊なシリコン・チップへの投資の賜物なのだ(P305~306)
【第39章】~【第40章】(略)
EUVリソグラフィの開発に関する技術的説明(第39章:詳細は省略)
【第41章】
AIシステムの効率的な訓練には、GPUが優れている。多数の画素をいっぺんに見ることができるGPUでは、1つずつしか処理できないCPUと比べて、ある画像(ネコなど)の認識方法を訓練するのに必要な時間が劇的に減少する(P330)
クラウド大手は、NVDAのチップを購入するだけでなく、人工知能や機械学習を中心とした処理のニーズに特化した独自のチップを設計し始めている(P330)
【第Ⅶ部】
【第42章】~【第48章】(略)
【第Ⅷ部】
【第49章】~【第54章】(略)