武士の家計簿 磯田道史著 2003年4月新潮社刊 新潮新書

(目次)

はしがき 「金沢藩士猪山家文書」の発見

第1章 加賀百万石の算盤係

第2章 猪山家の経済状態

第3章 武士の子ども時代

第4章 葬儀、結婚、そして幕末の動乱へ

第5章 文明開化のなかの「士族」

第6章 猪山家の経済的選択

あとがき

 

【第1章】

 猪山家の家計簿は、天保13(1842)年7月から明治12(1879)年5月まで37年2か月間書き続けられている。弘化2(1845)年3月11日から翌年5月15日までの1年2か月分が欠けている(P15)

 猪山家は加賀藩の御算用者(算盤係:会計処理の専門家)(P16)

 猪山家は当初、前田家の陪臣(菊池家の給人)。5代目猪山市進(いちのしん)が享保16(1731)年、前田家の直参に加わった。御算用者として採用。菊池家の家政を担う中で算盤をはじき帳簿をつける技術を磨いた(P19)

 江戸時代の武士社会の弱点は、行政に不可欠な算術のできる人材不足。算術を賤しいものと考える傾向があり、近世武士の世界は世襲の世界だが、算術は世襲に向かない。藩の行政機関は厳しい身分制と世襲制だったが、算盤がかかわる職種のみ例外で、御算用者は比較的身分にとらわれない人材登用がなされていた。幕府の勘定方も同じ(P19~20)

 算術から身分制度が崩れるという現象は、18世紀における世界史的な流れ。大砲と地図がかかわる部署で、砲兵将校、工兵、地図作成の幕僚は、弾道計算、測量で数学的能力が必要(P21~22)

 武士の世界では、1つの家からお城に上がって勤務するのは、上士(士分以上)では原則として当主と嫡子のみ。次男以下は勤務の席がない(他家に養子に行くしかない)

が、下士(下級武士)の小役人の出仕は、機会・能力次第で、次男以下もチャンスがあった(P24~25)

 武士の家計簿を残したのは、猪山佐内綏之(やすゆき)(一進の二男)。明和8(1771)年御算用者に正式採用。切米40俵。天明2(1782)年前藩主前田重教の御次執筆(ご隠居様の居室に隣接した御次の間に控えて御用を聞き帳簿をつける役目。書記官)(P25)

 7代猪山金蔵信之は綏之の婿養子。婿養子は日本的な制度。中国、朝鮮は婿養子が少ない。「祖霊は男系子孫の供物しかうけつけない」とする厳密な儒教社会から見れば、婿養子制度は考えられない「乱倫」の風習(P29~30)

 文政4(1821)年9月、46歳のとき、会所棟取役・買手役兼帯(加賀百万石の買物係)に就任。江戸詰めになり出費激増。出世と俸禄加増だが出費はそれ以上(P31)

 文政10(1827)年3月、御住居向買手方御用ならびに御婚礼方御用主付に就任。藩主前田斉泰が将軍家斉の娘溶姫と婚姻。婚礼の準備係(御殿をつくり、調度品を調達、諸方との祝儀の贈答)で、婚儀に関わる物品購入を一手に引き受ける仕事。加賀藩は財政が破綻している状態で、内輪向きの費用を削り、婚儀は成功させる(P32~34)

 10月、新知70石の沙汰=領地を分け与える(P35)

 知行取(給人):主君から領地を分与された武士

 無足:米俵、金銀で俸給を支給される武士

 江戸時代、知行地を与えられても、実体はない。石高に応じた年貢米が藩庫から運ばれてくる制度が存在した(蔵米知行、蔵米地方知行)故、自分の知行地を一度も見ることなく死ぬ武士は珍しくなかった。近世武士(薩摩藩仙台藩を除く)にとって、領地とは紙の上での数字と文字にすぎなかった(P36~38)

 本来、領地の支配には、次の行為が必要(地方知行制)だが、たいていの藩では藩の官僚機構が代行した(P38~39)

①勧農:現地に赴き、農作を励ます

②裁判:領地での事件・訴訟を処断・裁決

③租率決定:田畑の様子を観察し、租率を決定

④年貢収納:年貢を取る

 明治維新で武士階級が簡単に経済的特権を失ったのは、現実の土地から切り離された領主権は弱く、トップダウンの命令1つで比較的容易に解体された。ただし、武士の領主権が現実の土地と結びついていた鹿児島藩では、西南戦争など激烈な士族反乱を招いた(P40~41)

 国家は、その時代ごとに最も金を食う部門を持っている。江戸時代は大奥、近代は海軍。猪山家は江戸時代には姫君の算盤役、近代は海軍に配属され、主計トップとして海軍の経理を任された(P42~43)

 8代目直之は4男。御算用者は専門技術で仕える家芸人であるため相続原則が緩やかで、長子相続は絶対ではない。直之は出来が良く、天保9(1838)年には、26歳で中納言様(藩主)御次執事役(現職藩主の書記官)に抜擢された。ただし身分と俸禄は低い(40俵)(P43~44)

 

【第2章】

 猪山家は、俸禄を加増されたにもかかわらず、多額の借財を抱え、家計が回らなくなっていった。江戸詰めの役目を申し付けられたことが原因だ。江戸時代の武士の俸禄制度は、現在の職務内容と関係のないところ(家柄、先祖の手柄)で禄高が決まっていた(P47~48)

 猪山家の俸禄は、信之(知行70石:銀1321.3匁)、嫡子直之(切米40俵:1754.89匁)合計銀3076.19匁。丁銀など銀貨で約3貫目(=3000匁=11.25㎏)。銀1匁=4000円として合計1230万円になる(P51~55)

 天保13(1842)年7月11日時点で、猪山家の負債総額は銀6260匁。借金の利子の年利18%が多く、15%は低いほうだった。鳥取藩士の場合、年収の2倍の借金は平均的な姿だった。幕末になると、武士の多くは過剰債務を抱え、高金利で首が回らなくなっていた(P56~57)

 大名や旗本の借金は金額が大きいので大名貸、札差・蔵宿などの大商人だが、一般の武士は不明。猪山家の場合は、①町人(48%)、②藩役所、③武士(親類)(32%)、④武士(親類以外)、⑤知行所(村方)(P56~58)

 前近代社会は身分で人が分断されていた社会であり、身分を超えて金を貸すリスクが非常に大きかった。武士の年貢米を町人が取るのは困難であり、借金を踏み倒されても江戸時代の裁判制度は「金公事」を確実に処理するようにはできていない。藩は強制執行してくれない。⇒武士は武士身分内部で貸借関係を発達させるしかない⇒同僚、親戚間で無担保高利融資。特に武士同士の頼母子講(無尽講)は盛ん(P59~60) 

 猪山家は、天保13(1842)年夏、借金整理を決意。猪山家の家計簿もこの決意のもと作られた。家財道具を売り払い。直之44品目、841.75匁。信之24品目、812.17匁。妻お駒13品目、713匁(婚礼衣装の加賀友禅)、母7品目、197匁。合計88品目、2563.92匁。妻の実家が銀1000匁を無償提供、勤務先から500匁借用、大口融資先に元金4割返済、残6割を無利子10年賦で交渉し応諾。結果、借金総額2600匁、ほとんど無利子(P60~68)

 江戸時代は、武士が経済総生産の相当部分を取り上げて消費していた時代。前期50%近く、後期25%程度。猪山家の手取り収入(可処分所得)は、銀2632.28匁、消費支出2418.12匁、黒字214.16匁。消費性向(=91.9%)は高い。現代日本の勤労者世帯は、83.8%(1963)⇒72.1%(2001)(P72)

 武士家計では祝儀交際費、儀礼行事入用の比率がずば抜けて高い。「武士身分としての格式を保つために支出を強いられる費用」を支出しないと、江戸時代の武家社会から確実にはじき出され、生きていけなくなる。江戸時代初期は、身分費用(=その身分であることにより不可避的に生じる費用)が、身分利益(=その身分であることにより得られる収入・利益)より、はるかに大きかったが、幕末には、武士身分の俸禄カット等により、バランスが崩れた。明治維新により、武士は身分的特権(身分収入)を失ったが、同時に身分的義務(身分費用)からの解放する側面もあった。武士の多くが抵抗しなかったのは、身分費用の問題がかかわっていた可能性がある(P74~77)

 武士は「親族の世界」で生きており、婚姻、養子を通じて生じる縁戚関係によって形成されることが多い。①武士の金融は、親類関係に大きく依存。②武家社会で生きていくうえでの情報や教育の面でも、親族は重要。江戸時代は平均寿命が短く、当主が早世して、幼い維持が後を継ぐとき、武士の作法・役所のしきたりを伝授するのは伯父(叔父)などの親類。連座制の存在により親族は運命共同体。③男子が生まれなかったとき親族と相談して養子をとる(親族が頼り)(P81~84)

 江戸時代は、世襲身分制の社会であり、武士は「先祖のおかげ」で武士の地位についていた。なので由緒筋目の源泉である「親類と先祖」との交際が欠かせない。先祖との交際は、祭祀行為だ。仏壇への花代、菩提寺への喜捨、仏様へのお供え等も身分費用(P84~85)

 家来給銀等は、家来や下女への人件費。正式な外出には家来同伴。母や妻の外出には下女。武家屋敷では、男は男の指示系統、女は女の指示系統で動いた。男家来の年間給銀は83匁、下女は34.75匁。ほかに毎月50文の小遣銭、正月・盆暮れの祝儀。他家にお使いをすれば15文の祝儀。武士の身分費用の支出の恩恵を武家奉公人(家来・下女)も受けていた。しょっちゅう人前で土下座し、辛い家事労働をしたが、食事、衣服支給で親元に帰れば田畑があり、懐具合は主人より家来のほうが豊かだった(P85~88)

 江戸時代は圧倒的な勝ち組をつくらない地位非一貫性(=権力・威信・経済力が一手に握られない状態)の時代だった。武士は威張っていたが貧乏、商人は大金持ちだが卑しい職業とされた。これが江戸時代の社会を安定させていた(P89~90)

 俸禄支給日の配分:おばば様90匁、父上様(信之)176.42匁、母上様83匁、弥左衛門(直之)19匁、妻(お駒)21匁、姉様(婚出)5匁、おぶん(婚出)5匁、お熊(直之娘)9匁。父親の俸禄も含め、直之主導で配分、家計簿も直之が記入。女性たちもしっかりもらっており、江戸時代の武家女性は自立した財産権を持っていた(P90~91)

 武家の女性は家の相続権はなく、少女時代は男子より一段下の扱いで、嫁に入っても辛抱させられたが、男の子を産み、その子が成長して「母上様」となり、孫ができて「おばば様」となると、家庭内での地位は格段に向上していった。猪山家でも、散々小遣いを使っているのは母となった女たちだ(P91~92)

 武家女性は、生涯にわたり実家との絆が強い。夫と妻の財産は、明確に分かれていた。江戸時代の結婚は長続きしなかったので、いつ離婚してもいいように、夫婦の財産が別になっていたのだろう。①寿命が短いので死別、②離婚が多い(32人の宇和島藩士のうち13人が離婚経験者)。嫁は、子どもを設けてしっかり定着しない限り、いつ実家に帰るとも知れない存在(P92~93)

 城下の武家地に集められた藩士は、土地経営による収益、庶民相手の商売や金貸しができなかった。営利行為を許さない土壌が存在し、武士は土地と資本が生み出す大きな利潤の機会から切り離されていた。明治維新後は、地主として家賃を取ったり、金融部門から(銀行員になって)収入を得たりした(P94~95)

 猪山家では、自分の米のうち食用米以外の34石は、支給時に、藩の米蔵に置いたまま時価で売却し、すべて銀(銀札=藩札)にして持ち帰ったが、銀貨は借金返済、頼母子講に使うのみで、日用品の購入には銭に両替して使っていた(P96~99)

 

【第3章】

(出産儀礼):出産費用の半分以上を妻の実家が負担(P107~110)

①1843.12.19 着帯:妊婦に腹帯をまく。妊娠5カ月目の戌の日

②1844.  4.13 成之出生  

③1844.  4.15 三つ目:誕生3日目の祝宴。西永(お駒の父、母、兄)、清水家より6名

④1844.  4.19 七夜:誕生7日目の祝宴。西永、清水、竹中、増田、太田家14名を供応

            藤井、坪内、金岩、猪山(本家)の各親戚が祝いに来る

⑤1844..  5.15 神明宮(鎮守)に参詣。外祖父西永家に挨拶

 武家の場合、女性が実家に密着しており、婚家に取り込まれることがなかった。武家の嫁は血縁力が期待された。家内の年中行事を取り仕切り、親戚と付き合い、子供を産んで、婚家を安泰にする役割。その嫁がいることで血縁関係が広がり、政治的にも血縁的にも、家が強くなることが期待された(P110~111)

(生育儀礼)(P116~126)

⑤1844.  8.16 箸初はしぞめ:食べ始め、西永夫妻(祖父母)と嫡子を供応

⑥1845.11.18 髪置:数え2歳。髪伸ばし初め。西永・増田(父方伯父)を供応

⑦1847.11.11 着袴:数え4歳。袴を着け刀を差す。(袴は武士のシンボル)

          西永、増田、竹中、吉崎(伯父)を供応。親戚一同から祝儀

⑧1854.10.16 角入すみいれ:数え11歳。前髪に剃込を入れる

⑨1857.  1.16 前髪:数え14歳。前髪を剃って元服

 

【第4章】

(葬儀費用)   葬儀費用 香典収入 自己負担(P129)

父・信之 1849.4 809.50匁  461匁  43%

祖母   1849.5 751.86匁  549.5匁  27%

母    1852.6 647.82匁  135匁  79%

直之   1878.4 39.85円   9.9円  75%

 葬儀費用の額は大きく、年間収入の1/4を費やしている。加賀藩士の世界では、同僚が香典をくれるのは本人死亡の場合のみ。葬儀は親戚の費用で行う。通夜の夜食は、嫁が用意(夜食費用を妻の実家の父親が負担)(P129~131)

 江戸時代の結婚は熟さなければ成立しない(熟縁)未婚でも既婚でもないグレーゾーン(お試し期間)があった(P136~137)

 幕末という時代は、計算能力が高く、事務処理を確実にこなす「藩官僚」を欲していた。成之は事務処理に優れ失敗がなかった。新政府は元革命家の寄り合い所帯であり、実務官僚がいない。成之も存在価値があった(P143~145、152)

 

【第5章】

 官僚軍人になる士族は、官への強い志向を持ち、近代化に有益な学識才能に恵まれ、人脈縁故があり、官途に就くための周旋力・折衝力を持つ必要があった。このような条件で、士族は、新時代の支配エリートとそうでない者に分別された。江戸時代の猪山家は、由緒家柄を重んじる藩組織の中で蔑まれ続けてきた。ソロバン役という賤業についていたからだ。しかし、藩社会が崩壊し、近代社会になると、この賤しい技術が渇望され、重視されるようになった(P176)

 

【第6章】

 フランスでは激しい大革命の末、幾多の貴族を断頭台で処刑したが、貴族の地主経営は完全には消滅していない。なのに日本では、士族が地主階級に転化せず、別の道に進んだ。猪山家も維新後に地主になろうとしたが、様々な条件が、それをあきらめさせている(P179)

◎フランスの貴族と日本の武士階級を比較するのは違うんじゃないかな?貴族と比較すべきは大名であって武士ではないだろう。

 猪山家は次の理由で農地の購入をやめている(P180)

①農地を小作させたときの平常時の利回りは10%だが、凶作時には6.6~3.3%になる

②土地の購入費用が高額で容易に調達できない

③徳政があると農地を取り上げられるリスクがある

④農地価格下落のリスクがある

 日本で旧支配層が地主経営するには、次の2つが必要(P181~182)

①莫大な資金力       ⇒華族

②後発参入が可能な広大な土地⇒開墾地、北海道、植民地

(猪山家の資産運用検討)(P201)

        運用方法  期待利回り 元本リスク 流動性

A案:農地購入 ⇒地代を得る  7.5%  小   低:低利回り

B案:借家購入 ⇒家賃を得る  13%  中~小 低 ⇐ 採用

C案:会社に預金⇒利子を得る  15%  大~中 高:銀行類似業務会社・リスク大

D案:貸金業経営⇒利子を得る  20%  甚大  中:貸倒れリスク大