(目次)
第1章 日本史を疑ってみよう
第2章 古代
第3章 平安時代
第4章 鎌倉時代
第5章 室町時代
第6章 戦国時代
第7章 江戸時代
律令体制は、当時の現実からかけ離れた絵に描いた餅であり、最初から機能しなかった。律令は、当時のチャイナ・スタンダードを取り入れることで、唐の求める秩序に日本も加わることを示すためのものであり、外圧への対応だった。
1180年、以仁王が平家打倒の令旨を発したが、挙兵した武士が攻撃目標としたのは各地の国衙であり、多くの武士が目指したのは、中央の政治から平氏を排除することではなく、それぞれの土地で、自分たちの在地権力を確立することだった。
関東の武士たちが頼朝を選んだのは、自分たちの土地支配を保証してもらうためには、朝廷との交渉=外交能力が必要で、都生まれ都育ちの頼朝には朝廷との交渉=外交能力があったから。鎌倉幕府は、東国の武士たちの利益を代表する政権である。
元には、もともと、日本に攻め込む意図はなかったが、鎌、使節団を鎌倉に連行し、斬首するなど、不適切な対応をしたために元寇を招いた。時の執権北条時宗は、亡国の暗君である。
鎌倉時代末期、北条得宗家への権力が集中し、鎌倉幕府は御家人のための政権から北条得宗家のための政権に変質していた。御家人たちは、もっとましな幕府を求めていただけであり、朝廷復活を望んでいたわけではない。
後醍醐天皇の建武の新政は、「土地の領有はすべて天皇一人が決定権を持つ」としたが、実現への方策が示されておらず、机上の空論であり、妄想の類である。後醍醐天皇は、その現実を見ようとしなかった。
南北朝が50年続いたのは、発足当初の足利政権の基盤が盤石ではなかったため朝廷を二分して力を削ぐ思惑があったためだが、足利政権側に尊氏側(朝廷融和派)と直義(尊氏の弟:朝幕分離派)の争いがあったためでもある。三代将軍義満=全盛期に至り、朝廷が警戒するほどの存在ではなくなったこともあり、南北朝が統一された。
信長は全国統一を目指し、貨幣経済の発想をもとに交通の要所(京都、堺、大阪)を抑え、瀬戸内海を視野に置いて、本拠地も次々に変えていった。(清州、小牧山、岐阜、安土)
一般に戦国大名は、領国を拡大しても本拠地を動かしていない。彼らの目的は自分の独立国を守ることに主眼があり、隣接国を侵略して、自国の盾にしたのであって、全国統一という発想はなかった。