市場サイクルを極める ハワード・マークス著 2018年10月日本経済新聞出版社刊

(目次)

はじめに

第1章 なぜサイクルを研究するのか?

第2章 サイクルの性質

第3章 サイクルの規則性

第4章 景気サイクル

第5章 景気サイクルへの政府の干渉

第6章 企業利益サイクル

第7章 投資家心理の振り子

第8章 リスクに対する姿勢のサイクル

第9章 信用サイクル

第10章 ディストレスト・デットのサイクル

第11章 不動産サイクル

第12章 すべての要素をひとまとめに~市場サイクル

第13章 市場サイクルにどう対処するか

第14章 サイクル・ポジショニング

第15章 対処できることの限界

第16章 成功のサイクル

第17章 サイクルの未来

第18章 サイクルの本質

 

【はじめに】

 「投資で一番大切な20の教え」の20の要素の1つひとつが、成功を願う投資家にとって絶対欠かせないものだ。サイクルは投資において唯一価値ある要素だとは言えないが、20のうち最重要項目に一番近い要素だ(P7)

 

【第1章】

 サイクルの中での立ち位置が変わると、勝ち目も変わる。サイクルに関する何らかの見識を生かせば、勝ち目が大きくなったときには投資額を増やして、より積極果敢な投資を行い、乏しくなったときには投資額を減らして、より防御性を高めることができる(P18)

 PFをある時点で最良な形に組むには、攻撃性と防御性のバランスをとるべく調整することである(P21~22)

 未来は、起きる可能性があることの範囲、可能性の確率について考察した確率分布として見るべきだ(P24~25)

 

【第2章】

 多くの人は、出来事の連続という観点からサイクルをとらえ、各出来事は決まった順序に従って規則的に起きると考えている。それだけでは不十分だ。1つのサイクルの中の出来事は、それぞれの出来事が、次の出来事を引き起こすと捉えるべきだ(P35)

 右肩上がりの線とその周辺で上下動する線。中央の線は、変動するサイクルの中心点を意味する。基調となる方向性や長期トレンドが見られるものもあり、多くは上向きだ。時間の経過とともに、長期的に経済は成長し、企業利益は拡大し、市場は上昇する傾向にある。サイクルに単独の出発点や終着点はない。妥当な中心点は、物事を極限から標準へと向かわせるが、通常、標準に留まる時間は長くない。中心点から先に進む幅が大きいほど、サイクルはより大きな混乱を引き起こす可能性がある。ブームやバブルの後には、はるかに大きな損害をもたらす崩壊、暴落、パニックが訪れる(P36~43)

 1つの領域におけるサイクルの変動が別の領域のサイクルに影響する。景気サイクルは企業利益サイクルに、利益サイクルに左右される企業の業績発表は、投資家の姿勢を変化させる。姿勢の変化が相場を動かし、相場の変動が信用サイクルに影響し、それが景気、企業、市場へと波及する(P48)

 周期的医な出来事は、内生的な事象と外生的な事象の双方から影響を受ける。外生的事象の多くは、他のサイクルの一環をなしている(P48)

 

【第3章】

 変動の大半は、サイクルが形成される際に人間が果たす役割に起因する。人間の感情や心理がもたらす趨勢が周期的な現象に影響を及ぼす。人間はサイクルを生み出す主因であり、ランダム性とともに、その一貫性、確実性を欠く性質の原因となる(P60)

 

【第4章】

 一国の経済の生産量は、労働時間と1時間当たりの生産量で算出される。よって、その国の長期経済成長率は、主に出生率や生産性伸び率等の基礎的要因で決まる。これらの要因は、10年単位の時間をかけて徐々に変動する。よって、年平均成長率は、長期間安定的な水準となる。しかし、1年ごとの成長率は、変化しやすい他の要因の影響でばらつきを生じる(P67)

 投資家の注意を引きつけるサイクルの大半は、長期トレンドの周りで揺れ動いている。こうした揺れは、短期的には企業や市場にとって極めて重要だが、基調となるトレンドラインのほうが、全体的に見てはるかに大きな意味を持つ(P70)

 出生率同様、生産性の変化は緩やかなペースで徐々に起きるのであり、GDP成長率にその影響が現れるまでには長い時間がかかる。生産性の向上は、主に生産プロセスの進歩による。生産性の向上率は数年間にわたり、比較的安定する傾向がある(P75~76)

①蒸気や水力を用いた機械が労働者に代替(産業革命の時代1760~1830)

②電力と自動車が効率性の低い動力と輸送手段に代替(19C末~20C初頭)

③CPその他の自動制御手段が人間に代替して生産機械を操作(20C後半)

④情報の取得、蓄積、応用、メタデータ、AIによる革新(現状)

(長期トレンドの短期的変化の要因)(P76~85) 

①人口動態の変化

②投入量の決定要因(労働参加率、1人当たり労働時間)

③意欲、教育、技術、自動化、グローバル化

④資産価格の上昇で、より豊かになった気分がすることで、限界消費性向を高める→経済見通しが自己実現的な側面を持つ(資産効果

 

【第5章】

 景気サイクルを管理することは、中央銀行と財務当局の責務の一部となっている。景気サイクルへの対処は反景気循環的で、独自のサイクルを描く形で用いられる。しかし、サイクルを管理するのは容易ではない(P93)

中央銀行の役割)(P97)

①インフレ抑制 :経済成長を抑える方向

②雇用確保の支援:経済成長を促す方向

 

【第6章】

 企業の利益を決定づけるプロセスは複雑で多くの変数に左右される。主に、営業レバレッジと財務レバレッジの違いにより、売上高の変化の利益への影響が他社よりはるかに大きく現れる企業がある(P101)

 

【第7章】

 企業、金融、市場のサイクルにおける上方(と下方)への行き過ぎた動きは、ほとんどの場合、心理の振り子の過剰な揺れによって起こる(P111)

 1970年から2016年の47年間に、S&P500の年間騰落率が平均的な水準から±2%(8%~12%)の範囲に収まった年は3回しかないが、±20%超となった年は13回ある。リターンが極端な水準に達した年は、ランダムに散らばっているのでなく、同じ方向に向かって同じように極端なパフォーマンスを演じた他の年の前後1、2年のところに位置していた(P116~117)

 

【第8章】

 理性ある投資家は、熱心で疑い深く、いつも適度にリスク回避的であるだけでなく、リスクに見合う水準よりも大きなリターンが得られそうな機会はないかとアンテナを張っている。一方、相場がよいとき、多くの投資家は「リスクは味方だ。高いリスクを取れば、それだけ儲けも大きくなる」と言い、相場が悪いときは「もう損したくない。ここから救い出してくれ!」と言う(P137)

 投資家が集合体としてのリスクをどのように見ていて、それをもとにどのように振る舞うかが、我々を取り巻く投資環境が形成される過程で圧倒的な役割を果たす。その投資環境の状態が、その時点でのリスクに関して投資家がどう振る舞うかを決定するうえでカギとなる(P139)

 リスクが高そうな資産は、より高いリターンを生み出しそうに見える必要がある。そうでなければ誰もそれに投資しないだろう。リスク不選考の性向があることから、投資家にリスクを取らせるには追加的な見返りの可能性で引きつける必要がある(P141~143)

 リスクに対する選考が変化すること、それが投資環境を変容させる(P145)

 よい出来事が起き、陶酔感、楽観主義、強欲の傾向が強まると、投資家は通常よりも、そしてあるべき状態よりも、リスク回避的でなくなる。よって、景気と市場が最も堅調な時に、より分別にかける投資が行われる(P149~150)

 高リスク資産の価格が上昇することは、そうした資産について見込まれるリスク・プレミアムに対する意識が、より高い時期に比べて小幅になることを意味する(P150)

 相場のピークでリスク許容度が天井知らずになるように、相場の底ではリスク許容度はゼロになる。こうした悲観的な姿勢の影響で、それ以上損失が出る可能性が極めて低くなる水準、巨額の利益が生じうる水準まで価格は下落する。だが価格が底にあるときに、傷を負った投資家は、リスク回避の姿勢を強め、傍観者になる(P156)

 最大の投資リスクは、投資家を夢中にさせる何らかの新しい投資根拠によって、資産価格が過度に高い水準に達したときに訪れる(P160)

 住宅価格が上昇し、金利が低下していた時に、アメリカの住宅ローン市場では①→⑥の出来事が生じた。住宅ローンの融資基準が低下し、リスクが上昇した(P166~167)

①初期優遇金利が低くなった

②融資比率(融資額/住宅価格)が上昇した

③融資比率100%のローンが登場した

④返済額に占める元本部分の比率が低いローンが導入された

⑤返済額に元本部分が全く含まれないローンが導入された

⑥職や信用履歴に関する書類なしでローンが組めるようになった

 他人が慎重さを欠いているときほど、自分たちは慎重に事を運ばなければならない(ウォーレン・バフェット)(P169~170)

 否定主義が過度に広がった時期には、行き過ぎたリスク回避の姿勢から、限界まで価格が下落する。それ以上損失が生じる可能性が極めて低くなり、損失リスクが極めて小さくなる。最も安全な買い場は、お先真っ暗だと誰もが思い詰めているときに訪れる(P179)

 

【第9章】

 素晴らしい投資成果は、質の高い資産を買うことではなく、契約条件が妥当であり、価格が安くて洗剤リターンが大きく、リスクが限定的な資産を買うことによって達成される。このような条件は、サイクルの厳しい局面に位置しているときに整いやすい。信用市場の扉が閉ざされた局面にあるときに、掘り出し物が手に入りやすくなる(P184)

 企業の資産の多くは長期的な性質のものだが、その原資は、借り入れコストが最小の短期債である。企業は、負債が満期を迎えるときは、完済ではなく、借り換えを行う。その時点で新たな債券を発行できなければ、デフォルトを余儀なくされる。中でも金融機関は、信用市場に過度に依存している(P188~189)

 好況で融資が拡大すると、無分別な融資が行われ、巨額の損失を生み出す。貸し手は融資をやめ、好況に終止符が打たれる。市場とは、最も高い買値をつけた人の手に、売り出されて品物が渡るオークション会場である。参加者が競り合うことで、価格は絶対額で見ても、PER等のバリュエーション尺度で見ても上昇する(P193~194)

 リスク許容の姿勢が支配的になり、貸し手が融資機会を得るために激しく競争すれば、競り合いは加熱し、払う代償は極めて高くなる。信用市場での過熱したオークションは、実際には敗者となる「勝者」を生み出す傾向が強い(P195)

世界金融危機の経過)(P201~) 

①元々、金融リスクに対する寛容すぎる姿勢

FRB金利引下げによって生まれた高利回り投資商品に対する旺盛な需要

③投資家が過度に積極的な姿勢で革新的金融商品を受け入れ

④革新的商品の中で住宅ローン担保商品が中心的存在になり、新たな派生証券をつくり出すうえで原資産となる住宅ローンに対するニーズが急激に高まった

⑤住宅ローンの販売を後押しし、住宅ローンの貸し手のローン組成基準が緩和→サブプライムローン開発

⑥住宅所有者増加=従来の住宅ローン融資基準では家を持てなかったはずの人々の増加

⑦格付機関がかさ上げした格付けを付与

⑧初期優遇金利の設定、変動金利型住宅ローンを開発、普及等により住宅購買力が増加

投資銀行が、サブプライムローンを束ねた上で、複数海藻に分割。仕組債により売りやすさを最大化

⑩仕組債を組成した投資銀行が、元本の返済順位が最低のエクイティ債を保持

 

【第10章】

 信用市場が過熱すると、状況が少し悪化しただけで返済ができなくなるような債券が発行されるようになる。これが無分別な信用の拡大だ(P218)

 ディストレスト・デットは、事業の面で問題はないが、財務状態が悪く、既存債のデフォルトを起こした企業や、その道をたどる可能性のある企業を対象としている。ディストレスト・デットの投資機会に不可欠な要素は次の2つだ(P219~222)

①無分別な信用の拡大

②企業利益の減少をもたらす景気後退または景気と金融市場に打撃を与える外生的事象(戦争)

 

【第11章】

 たいていの場合、人は強欲と希望的観測に流されて、好材料ばかりに目を向けてしまう。こうした傾向は不動産投資で顕著だ(P228)

 実物資産を伴う不動産の市場では、長いリードタイムが顕著だ。計画が始まってから建物が市場に出るまでには、往々にして好況から不況へと景気が移り変わるほど長い時間がかかる。(P229~232)

 好況時にプロジェクトを始めることは、リスクの源となりうる。不況時にとん挫したプロジェクトを買うことは大きな利益をもたらす可能性がある(P234)

 アメリカの2010年の1人当たりの住宅着工件数は、1940年~2010年で最低だった。サブプライムローン危機、住宅バブルの崩壊、2007年~2008年の世界金融危機の後、住宅建設は実質的に再開されておらず、直後の数年間に供給される新築住宅数は、住宅需要の回復に対応するには不十分だと推測できた。そこで、我々は住宅ローン不良債権、住宅建設用土地を担保とした銀行融資の不良債権に巨額を投じ、北米最大の非公開住宅建設会社を買収した(P236~238)

 資産価格が上昇しているときは人々が強気になり、識者の見解がそれをもっともらしく後押しする(P245)

 

【第12章】

 資産価格は、①ファンダメンタルズ(利益、キャッシュフロー、それらの見通し)、②心理(投資家がファンダメンタルズをどう受け止め、評価するか)の変化に左右される。証券価格が利益より大きく変動するのは、心理、感情などによるが、ファンダメンタルズと心理は相互に作用しあう(P250~251)

(強気相場の3段階)(P256)

①並外れて洞察力に富んだ一握りの人が、状況がよくなると考える(革新者)

②多くの投資家が実際に状況が良くなっていることに気づく(模倣者)

③最後に、すべての人が状況が永遠に良くなり続けると思い込む(愚か者)

 

【第13章】

 カギとなるのは、心理の振り子とバリュエーションのサイクルが今どの状態にあるかを知ることだ。過度に楽観的な心理と、高すぎるバリュエーションを積極的に受け入れる姿勢から、価格がピークに近い水準まで高騰しているときに、買わないこと(P276)

 市場がサイクルのどこに位置しているかは、バリュエーション尺度(株式はPER)による(P281)

 ①いろいろある中で何が重要なのかを見極め、②それによってどのような展開が生じるのかを推論し、③その推論から、今の投資環境を特徴づける要因を1、2個導き出して、そこからどう行動すべきかを割り出すことが重要(P286)

 ①資産の価格はどのような状態にあるか、②周りの投資家はどのように振る舞っているか、を絶えず、規律をもって評価することで、サイクルのどこに位置しているかを測る(P288)

 混乱が収まり、投資家の気持ちが落ち着いた頃には、バーゲンは終わっている。価格が本質的価値を下回ったときから、買い続ける。価格が下がる続けている場合は、買い増せばよい(P316~317)

◎上記は「市場は、あなたが支払い能力を保てる期間よりも長く、不合理な状態を続けることができる」(ケインズ)(P322)という引用と矛盾している。やはり「落ちるナイフ」はつかむべきではないだろう。

◎このあたり、ほとんど同じことを繰り返し言っているように思う。

 

【第14章】

 将来の市場動向に適したポートフォリオをうまく組むには、どういう姿勢で動くか(攻撃・防御)、サイクルの位置づけから将来の市場動向を巧みに読み取った上で、いつそれを実行に移すかがカギとなる(P330)

 

【第15章】

 市場サイクルに関する理解に基づいてポジションを変えることで、長期的な投資パフォーマンスを改善しようとするのは理に叶っている。①そのために必要なスキル、②実行することの難しさ、③その限界について理解しておくことは大事だ(P350

 とるべき賢明な策がないときには、賢明であろうとすることが過ちになる。我々は、大きなサイクルの波の中での極限に狙いを絞ることで、当たる確率を最大化してきた。恒常的に、極限以外のタイミングで成功を収めることは、誰にもできない(P356)

 

【第16章】

 類いまれな収益性を生み出すものはみな、追加的な資金流入をもたらし、やがて人気過多になって定番化すると、リスク調整後のリターンの期待値が平均へと近づいていくパフォーマンスがさえない資産は、しばらくすると超割安になり、アウトパフォームする立場に変わる。投資で成功するうえでカギになるのは、こうしたサイクルだ(P360)

 成功は、ほとんどの人にとっては良いことではない。成功は人を変えることができるが、たいていの場合、それは良い方向にではない。相場が力強く上昇する中で大金を稼ぐと、投資を極めたと思い込み、自分の見解と本能に対する自信を深めてしまう。そして自分が間違っている可能性を考えなくなり、損失を出すリスクを気にしなくなり、前の成功をもたらした安全域を確保しようとしなくなる。「強気相場と自分の知能を混同してははならない」(投資の格言)(P363)

 値上がり銘柄を買うトレンドフォロー投資、モメンタム投資は、しばらくはうまくいく。だがやがて、銘柄間のローテーションや出遅れ銘柄を買う動きによって、必勝法の座を奪われる(P368)

◎それはそうだけど、勝率は高いのでは?

 

【第17章】

 経済も市場も過去において一本のまっすぐな線に沿って動いたことはなく、未来においてもそれは変わらないだろう(P380)

 

【第18章】(略)

 

 

ウクライナ危機後の地政学 藤和彦著 2023年8月集英社刊

(目次)

はじめに

第1章 揺らぐ冷戦後の国際体制

第2章 世界はグレート・デプレッションに向かう

第3章 内戦のリスクが高まる米国

第4章 少子化と不動産バブル崩壊で衰退する中国

第5章 群雄割拠の時代を日本は生き残れるのか

おわりに ロシアとどのように向き合っていけばよいのか

 

【はじめに】

 ウクライナ危機では、米国の戦争研究所が発信する情報が、日本をはじめ世界のメディアで広く使われているが、この研究所は、ネオコンのケーガン一族が運営している。提供される情報の信憑性に疑問符が付く。実質的な交戦国である西側諸国のプロパガンダに染まっている状況に危機感を覚えざるを得ない(P2)

 プーチン大統領の戦争遂行に責任があることは否定しないが、米国をはじめとする西側諸国の対東欧政策が今回の戦争を招いたとの主張もある。無秩序な国際社会において、大国は地域の中で一番強い覇権国を志向し、自国の覇権地域に他の大国の勢力が及んでくることを防ごうとする。ロシアは、常に周囲から圧迫されていると感じ、そのことに反発する国だ。ロシアが中核的部分と考えているウクライナが独立し、反ロシアになったらロシアの強い反発を招いて危険だ(P2~3)

 国家、とりわけ大国は、互いに恐怖を感じており、自分たちの生存が脅かされるほどの恐怖を感じたとき、大きなリスクを背負って大胆な行動に出る(P4)

 冷戦は、米国の圧力で東側陣営が崩れたのではなかった。冷戦末期に主導的な役割を果たしていたのは、当時の西ドイツとフランスであり、ロシアとの協議を深めて東西の対立を緩和する(欧州共通の家)という構想だった(P5)

◎正直、うんざりしてしまって、まともに読む気になれなくなってしまった。今後、この方の著書を読むことはないだろう。

 

空白の日本史 本郷和人著 2020年1月扶桑社刊

(目次)

はじめに

第1章 神話の世界 科学的歴史の空白

第2章 「三種の神器」のナゾ 祈りの空白

第3章 民衆はどこにいるか 文字史料の空白

第4章 外交を再考する 国家間交流の空白

第5章 戦いをマジメに科学する 軍事史の空白

第6章 歴史学帰納と演繹 文献資料の空白

第7章 日本史の恋愛事情 女性史の空白

第8章 資料がウソをつく 真相の空白

第9章 先達への本当の敬意 研究史の空白

 

【第1章】

 古代日本は西型国家だった。西の朝鮮半島、中国大陸は、日本に新しい文化や品々をもたらす大事な地域だった。東にある関東は、大和朝廷に実りをもたらさない場所という認識だった(P23~24)

 663年の白村江の戦は、当時日本が持っていた朝鮮半島での利権を守るための戦いだったが、新羅・唐の連合軍に大敗し、利権をすべて失った(P25)

 固関の儀式:新天皇の即位等朝廷で大きな政治的事件が起きると三関を封鎖。反逆する勢力の京都への侵入を防ぐ目的。近畿より西側には関所がないのは、西側から対抗する勢力が来るとは考えていなかった(P28~29)

三関:愛発関(福井:北陸道)、不破関(岐阜:東山道)、鈴鹿関(三重:東海道

 日本の都市に城壁がないのは、日本国が生まれた700年前後、朝廷に対抗する勢力が日本になかったからではないか。関東や東北の国々は、大和朝廷の優れた文化を目にして、戦いを経ることなく、自然に従属し、降伏したのではないか(P32~35)

 明治政府は、日本が万世一系天皇を頂点にした統治国家であることを強烈にアピールした。結果、日本の天皇は、Emperor(皇帝)の称号を得ている。英国王室はKing/Queenと呼ばれる。英国王室以外のヨーロッパ王室の血統は、古くても18~19世紀前後のナポレオン戦争ぐらいから始まったものが大半(P37~38)

 日本は漢字文化圏の優等生(朝鮮、ベトナム)になるより、中国とは形の上だけでも対等な存在、独立国である道を選んだ。日本は、元々大王がいて、その上で天皇を名乗った。中国の皇帝の承認を得る必要はないと判断した(P43)

◎これが正しいかどうかは、朝鮮、ベトナムの状況との比較が必要。

 朝鮮やベトナムは、元号を定める権利がなく、中国の王朝が使う元号を使うしかない。日本では、「大化」以降、元号が連綿と続いており、空白の時期はあったが、701年の「大宝」以後、途絶えたことがない(P43~44)

 皇紀は、神武天皇が最初に即位した年を元年とした暦で、紀元前660年を元年とする。古来、日本の暦は、十干(甲、乙、丙~癸)と十二支(子、丑~亥)を組み合わせた十干十二支で表していた。讖緯説(緯書)では、その58番目の組み合わせ辛酉は革命の年とされ、60年が21回続いた時の辛酉は大革命が起こるとされた。この説に基づき、明治初頭の歴史学者が、聖徳太子がいた頃の辛酉が大革命の年と結論付け、その前の大革命を神武天皇の即位した年とした。結果、紀元前660年1月1日(太陰暦太陽暦で2月11日)を紀元節建国記念日)とした(P44~46)

 神話の世界の話を日本の歴史として「建国記念日」とすることはできないので、「建国記念の日(日本の建国をお祝いする日)」とした(P48)

 皇国史観とは、日本の歴史は万世一系天皇を中心として進展してきたとする歴史認識(平泉史学)。マルクス主義歴史観は、階級的闘争(貴族vs武士、武士vs民衆)として歴史を見る(P49~59)

 

【第2章】

 古来より、日本や天皇を守ってきたはずの仏教の存在が、天皇の代替わりの儀式に一切顔を出さない。中世における日本では、神道より仏教のほうが優勢であり、特に古代・中世においては、神道より仏教のほうが天皇に近い存在だった(お寺の権力、法王等)。「伊勢神宮天皇家には深い関わりがある」という話はフィクションであり、明治時代に作られた。持統天皇伊勢神宮に参拝してから千年間、天皇は誰も参拝していない(P64~66)

 三種の神器八咫鏡八坂瓊曲玉草薙剣)は、太平記によると、①北陸にある1セット(戦乱で消失)、②後醍醐天皇から北朝に渡された1セット、③天皇が吉野(南朝)に持って行った1セットの3セットがあった。②は、後村上天皇の軍勢が1352年、京都に突入した際、北朝から南朝に渡った。1392年、後亀山天皇南朝)が京都に赴き、後小松天皇北朝)に南朝にあった三種の神器を渡し、後小松天皇を正式な天皇と宣言したことで、以降、後小松天皇が正式な天皇と認識された。これ以降、三種の神器は1セットだけとして現代に伝わる。しかし、この時渡された三種の神器が②、③のどちらだったかは不明(P66~77)

 インド仏教のベースは、輪廻転生であり、命は次々に生まれ変わる。(祖先は墓の中にいない)日本の仏教では、祖先は墓の中に眠るとする。日本人は、中国仏教(祖先崇拝を仏教に取り込んだ)を受け入れた(P81)

 

【第3章】(略)

【第4章】

 無念の最期を遂げた天皇に対しては、よい名前を贈って怒りを和らげてもらい、怨霊にならないように祈願されてきた(P131~134)

崇峻天皇(553?~592:暗殺された)、安徳天皇壇ノ浦の戦い)、順徳天皇(1192~1242:承久の乱)、崇徳天皇(1119~1164:保元の乱

 利根川は、江戸時代に河川改修がなされる前は河口が江戸湾に通じていた。北条氏(鎌倉時代)は、伊豆半島から出発し、相模国武蔵国上野国に向かったが、下総国へは進攻しなかった。北条氏(戦国時代)も同じ展開(P135~138)

 

【第5章】

 将軍権力とは、政治と軍事から成り立つものと定義(佐藤進一)政治とは、統治権的な支配権。軍事とは、主従性的な支配権。江戸時代の将軍は、日本全国の国民に対して責任を持っていた。将軍は、日本を統治する権限を天皇からお預かりすると考えられており、総理大臣のようなもの。だから大政奉還では、将軍が政治の権限を天皇へとお返しする宣言が行われた。統治権的支配権とは、日本を政治的に治める権(P147~148)

◎どうなんだろう?将軍権力を「定義」することの意味は、誰を「将軍」と呼ぶかという問いに対する答えにすぎない。すると、そういう答えが出てくるのかもしれないが、それがなんだというのだろう?というのが第1の疑問

◎「将軍は、日本を統治する権限を天皇からお預かりする」というのは、幕末の将軍観であって、各時代に共通する認識ではないだろう。それはもしかして、水戸光圀大日本史あたりから生じたものではないのか?

◎「日本全国の国民に対して責任を持っていた」との表現は、誰に対する責任なのか?日本国民に対する責任なのか?天皇に対する責任なのか?後者の意味なら「統治権」という表現は適切ではないだろう。単なる「借り物の権力」となる。しかし、統治権は、支配者なら誰でも持っているのではないか?

◎この「将軍」の定義なるものは、国を支配する立場に立つ者が等しく負うべき要素なのではないか?そうでないとすれば、それは天皇と将軍の二重権力性の表現なのか?

 

 将軍には、軍事を動かすためには主従的な支配権と、政治を行うときには統治権的な支配権の両方が必要で、政治と軍事を行うのが将軍である(P151)

◎国の支配者は、常に、軍事的な権力と統治権的な支配権の両方を持っている。当該国内において、圧倒的な軍事力を持っていないと政治的な統治権を行使することはできないはずだ。したがって、この将軍の定義は間違っている。この章は、「将軍が支配者だった」と言っているに過ぎない。

 

 関ヶ原の戦いが終わり、1600年に家康は大坂城に入城。そこで各大名の処遇を決定した。家康と諸大名間に主従関係が結び直された。将軍権力の二元論に基づくと、1600年時点で江戸幕府は成立していたと考えるのが自然(P157~158)

◎時代区分としての江戸時代の始まりは、家康の支配権が成立したときということでいいでしょう。しかし、「幕府」とは、天皇から賦与された「征夷大将軍」の称号を持つ権力者が設立した統治機構と「定義」するのであれば、それは1603年ということになるのではないかな?要するに、言葉の定義の問題。

 朝鮮出兵においては、九州エリアの大名に対しては100石あたり5人の兵隊を連れてくるよう命じられた。戦前の陸軍では、40万石で1万人とされたことからすると、倍の徴兵。結果、朝鮮出兵は大失敗に終わり、その国力の低下が豊臣政権の終焉を招いた(P161~162)

 江戸城開城の際、西郷は最後まで慶喜切腹させることにこだわった。当時慶喜江戸城で謹慎していたので反乱の恐れはなかった。西郷は、大きな戦いでどちらが勝者であるかを見せないと、明治政府は十全な形で発足できないと考えていたからだろう。「慶喜に腹を切らせる必要はない」と主張していたのは、長州藩桂小五郎、広沢実臣)のほうだった(P169~171)

◎戦いで勝たないと政権が安定しないというのは、歴史が示すところである。ただ、佐賀の乱西南戦争がそれと同じ理屈だったかは疑問である。それらは敵対勢力の鎮圧というより政権奪取後の政権内での権力闘争だったと位置付けるべきで、それも歴史の中でよくある話だろう。

 

【第6章】

 古記録は、主に貴族や僧侶が行う儀式の詳細が書かれており、人に読ませることを前提にしている(P181)

 吾妻鏡は、北条氏が編纂。彼らの先祖である頼朝や時政、義時、さらに関東の武士たちの正統性を内外に示す目的のもの(P184)

 富士川の戦いで勝利した頼朝はその勢いで上洛を図ったが、千葉常胤(下総国)、三浦義澄(相模国)、上総介広常上総国)が、「頼朝が今なすべきは、平家と黒白をつけることではなく、関東に平和をもたらし、関東の武士たちの期待に応えること」と主張し、上洛を止めた。その後、広常は(頼朝の命を受けた)梶原景時に暗殺された(P188~191)

 

【第7章】

 平安時代前期・中期では母方政治(藤原摂関政治)が主流だったが、後期になると父方政治(院政)に変わった。婚姻形態が婿取り婚(招請婚)から嫁取り婚へと変化したのと同時期にだが、因果は不明。一般的には、結婚形態が先に変わり、政治形態に反映されたとされる。しかし、招請婚で母方が重視されるのに、母方系図が存在しない(P206~208)

 人類史の最も古い時代における家族形態は、「単婚小家族」が一般的。その後「直系家族」、さらに「大家族」に展開した(エマニエル・ドット:仏)

 単婚小家族:子供は全員平等、受け継ぐ財産がない

 直系家族:跡継ぎ以外は自立。家から出ていく

 大家族:子供は成人しパートナーも一緒に大家族で一緒に住む

 招請婚は、単婚小家族から直系家族が定着する間に生まれた想定外のバグにすぎないと考えられる(P217)

 ひとたび戦争が起こると、必然的に男が戦いに行く。しかし平安時代は戦いがない時代なので、戦いに重きが置かれなかった。そこで女性が進出し、活躍した。そういう中で日本文化の中心にあったのは「恋」だった(丸谷才一)とされる。実際、平安時代の貴族文化の中心にあるのは和歌だった。これに対し中国の漢詩は、出世の道具だった(P220~223)

 

【第8章】

 坂本龍馬の暗殺は、京都見廻組とされているが、彼らは新撰組以上に幕府の中枢に近い警察組織であり、竜馬が暗殺されたのは大政奉還の1週間後だった。竜馬は大政奉還の推進者であり、その時点では幕府は大政奉還に賛同して動いている。よって竜馬を暗殺する必要がない。薩摩藩は、江戸城総攻撃を企図していたわけで、大政奉還されると戦争の火種がなくなり、幕府を討つ大義名分がなくなる。竜馬は薩摩藩にとって邪魔な存在だった(P243~244)

 

【第9章】

 17C半ば、水戸光圀が「南朝が正統だ」と言い出し、その解釈は水戸学に受け継がれたとされる。しかし、光圀の意図は、「その時点の天皇北朝天皇で偽物(だから必ずしも従う必要はない)」ということだった(尾藤正英の仮説)(前期水戸学)

 18C後半に始まった後期水戸学(藤田幽谷、藤田東湖(西郷の師匠格)等)は尊王を打ち出し、その思想は勤皇の志士(吉田松陰西郷隆盛等)に大きな影響を与えた。そのため明治政府は、「正統な天皇南朝である」との立場に立った。これは、従来の「北朝こそ正統である」との朝廷の常識、及び明治天皇の立場(北朝の子孫)と矛盾することとなった(P268~271)

 

 

   

 

マネーの鉄則 岡崎良介著 2010年11月日本経済新聞出版社刊

(目次)

はじめに

序章 時計の針は戻らない

第1章 ポイント・オブ・ノー・リターン 衰退国転落の実像

第2章 先人たちの失敗 軽視された「現金」

第3章 新しい経済理論 「信用緩和政策」という第3の道

第4章 検証・相場ローテーション

第5章 株価底入れのシグナルを探せ

第6章 信用リスク循環から不況脱出のシグナルを読む

第7章 石油危機と金融危機の相似形

第8章 「相場ローテーション」を使った大胆予測

終章 マネーの鉄則

 

【はじめに】

予測① 今回の米国の景気回復のピークは2014年4月頃となる

予測② 米国の不動産REIT市場は2013年4~5月頃にピークをつける

予測③ 米国株は2014年1~3月頃にピークをつける

予測④ 米国株のピークの水準はS&P500で見て、1623ポイントあたりとなる

予測⑤ 米国株価ピークをつけるときに相前後して日本株もピークをつけるが、その時の日経平均株価は17400円~19600円となる

予測⑥ 米国の本格的な利上げは2012年以降となる

予測⑦ 米国信用リスクは2012年後半から2013年前半にかけてボトムアウトする

予測⑧ ドルの大底確認は米国の量的緩和策が終了してからであり、その時期は2012年以降にずれ込む

 

【序章】

 私(著者)自身、2007年1月から米国REIT市場が下落トレンドに入り、それが不動産市場の崩壊→サブプライム・ローン問題の発生→信用リスクの上昇→株価の下落→景気の後退、という図式はある程度イメージしていたが、リーマン・ブラザーズが消滅することまでは予想できなかった(P16)

 2008年7月の時点で、米国株の下落率は高値から24%の下落だったのだから、通常の景気後退期に発生する株価の下落率としては十分なものだった。今回の株価の下落は半分が景気後退、残り半分がリーマン・ショックのせいだったと言える(P18~19)

 どんな形態にせよ、会社を潰す、潰さないは債権者が決めることだから人為的な出来事のはずだが、誰もリーマンを救おうとはしなかった。リーマンは、あまりにも性急な成長やビジネスにおける傍若無人な振る舞い、同業者や政治家に対する傲慢な態度などにより市場(関係者)から嫌われていたのだろう(P20~21)

 米国GDPにおける金融及び不動産セクターの割合は、戦後10%から上昇を続け20%に達した。同期間の同セクターに従事する人の割合は、4%から6%に上昇した後横ばいに転じている。米国では、他の産業がじり貧となる中で、金融・不動産業だけが際限なく稼ぎ続けてきた。格差社会が生じた(P23~25)

 GMJAL自民党の敗北と下野は、年金・退職者医療という長期的・固定債務の異常な大きさが原因である。あつデフレのなって負担が顕在化した。欧米企業は、デフレ。売上減少などの問題を、レバレッジ型の経営に求めてきた。この仕組みは、リーマン・ブラザーズに代表される投資銀行のビジネスモデルと同じである(P27~31)

 2008年の時点で、有権者中の年金受給者の割合は1/4で、試算では2015年に1/3、2040年以降1/2となる。民主主義では、勝つのは多数派なので、債権者である年金受給者は、国のB/Sがこれ以上拡大しないように今後の政治をコントロールしていく。よって、日本は、今後思い切った景気対策を打つことはない(P36)

 

【第1章】

 2001年3月末、約240兆円をピークとして家計における生命保険残高は、毎年4%のスピードで減少してきた。生命保険という金融資産は、日々の生活のために削られていった(P41~42)

◎生命保険は、現役の働き手が死んだときに残された家族の生活保障のために積み立てられるべきものだ。とすれば、現役を退いた者が多数を占めるようになれば、生命保険が不要となり、残高は当然に減少する。

 

【第2章】

 先人たちは、「財政赤字長期金利の上昇をもたらし、それがまた利払費用の増加を通じて財政赤字の増加をもたらす」というシナリオを描いた。しかし、現実には長期金利はちっとも上がらなかった。その理由として、経済学者、エコノミストはたちはデフレの進行をあげた(P50)

 日本の失業率は1992年あたりから上昇傾向にあり(2.0%→5.5%)、同時にその少し前から設備稼働率も低下基調(100%~85%)にあった。失業者と休業状態の工場が溢れていたので賃金も物価も上がらず、そんな状態では儲かる話もないので誰もお金を借りない。資金需要がないので長期金利がずるずる下がった(P53~54)

 長期的なドルと円の関係は、構造的な要因による一方的なトレンドではなく、極めて循環的なパターンで動いてきた。その原動力は、日本の財政赤字問題や不況、デフレ等の景気循環に起因したものではない。米国における景気後退リスクが高まったとき政策金利が先行して動かされた場合にのみ、はっきりとした円高ドル安パターンを見せている。それが杞憂に終わり、米国の経済成長が軌道に戻ればドルが買われ、円が売られた。こうして4~5年を1回転とするサイクルが生まれた(P57)

 第二次世界大戦が始まる直前は、1ドル=4円50銭前後だったのが360円まで切り下げられたのだから、日本経済は通貨を1/80に切り下げることで経済成長を遂げたことになる。その後、長い円高傾向が続くのは当然である(P63)

 我々の属する資本主義社会において、新興国が新しいメンバーとして貿易・資本の自由な取引を行うためには、まず決済通貨として常にドルを持たねばならならず、潤沢な外貨(ドル)準備を持たねばならない。よって、米国の経常赤字、ドルの下落が前提とされている(P63~64)

 もっとも効率的で安定的なはずの国際分散投資が、2007年6月から負け続けた。その理由は何かに焦点を当てて分析を進める(P68~70)

 日本のバブル崩壊(1990年7月~9月)もリーマン・ショック(2008年9月)も原因は、現金需要の急激な高まりである。1990年の日本では金利が異常に引き上げられたため急激に現預金が枯渇した。2008年の米国では、不動産の多額の借金返済に追われ、ただでさえ現預金が少ないところに、給料の減額や失業などの悲劇が重なり、利息が払えなくなるところまで追い詰められた(P73)

◎日本の場合は、それまでの過剰流動性を放置してきた日銀のお粗末な金融政策の結果だと思うし、米国は、民主党の無理な持ち家政策により生まれたサブプライムローンと新たな金融技術の合わせ技によるバブルの生成とその崩壊が主因でしょう。現金に対する需要は、バブル崩壊の最後の場面でシステミックリスクが顕在化したときに最大となったもので、それを「原因」と言ってしまっていいかどうかは疑問がある。

システミック・リスク発生のメカニズム)

①不況になり、所得が減る。または金利が急上昇して利払いが増え、所得が減る

②債務の支払いや、所得の不足を補うために現金が必要となり、仕方なく資産を売る

③資産価格が次々と下がり、担保価値が下がる。倒産リスクが上昇する。債権者が現金の支払いを強要し、資産が下落する

④現金需要が急増したためすべての資産が次々と売られ、ついに分散投資は崩壊し、システミック・リスクが発生す

 

【第3章】

 銀行は、貸出先を分散する。優良企業(低リスク先)は低利、弱小企業(高リスク先)には高利で貸し出すことで、全体として収益の最大化を目指す。好景気時は、相対的にハイリスク先の比重が高まり、不況時には低リスク先にシフトする。この時金融政策が金融緩和状態にあり、政策金利が引き下げられていてもその効果は弱小企業には及ばない(P83~87)

 社債スプレッド(社債利回りー国債利回り)は、2008年12月に6%を記録したが、それまでの半世紀は0%~4%の範囲で循環的に拡大・縮小を繰り返してきた。金融緩和が始まった2007年秋から、FRBの利下げにより国債利回りは切り下がったが、社債利回りは上昇した。この上昇の原因は、投資家たちの疑心暗鬼である。これは、1990年、1981年、1980年、1973年における米国の景気後退期に共通しており、政策金利は低下していたのに、信用リスク上昇(社債スプレッド拡大)と実質GDPの低下が同時に起こっていた(P89~96)

 公共投資を中心とした財政政策は、少なくとも先進国では、その後の膨大な財政赤字が待っており、経済政策は袋小路に陥っている(P96~97)

 ひとたび金融危機の発生が人々に意識され、いつ「解約」が起こるかわからない事態に陥れば、金融機関はリスク性資産の比率を引き下げるしかない。不確実性が増す際の現金需要の急増が生じる。これは投資の現場におけるストップロスと同じ原理である(P99~100)

 米国で現預金保有割合が負債比で減り続けたのは、1990年代以降金利が下げ続けたことに原因がある。低利の現預金より、借金して投資したほうが得という考え方が優位になり、レバレッジ型経営が流行した。結果、高金利に転換したときのリスクへの耐性が失われた(P105~106)

 FRBは、金融機関が保有する様々な資産を購入し、自らのB/Sがボロボロになるまで資金供給を続け、FRBの総資産は9000億ドル(2008年8月末)から2兆2400億ドル(2009年末)に膨れ上がった。特に集中的に買い入れたのは、政府系住宅金融公社発行のエージェンシー債とエージェンシーMBS不動産担保証券)で、その保有残高は2009年末時点で、FRB保有の総資産額の48%(1兆681億ドル)を占めた。当時、「FRBが破産し、米国も破産する」との批判があった。しかし実際にはFRBの2009年純利益は、前年比47%増の521億ドルの過去最高を記録した(P108~109)

 FRBの新金融政策=信用緩和政策は、金融危機の本質である現金需要の急増に着目し、資金供給を断行したが、交換対象を金融機関が最も手放したかった不動産関連の証券に集中させた大英断だった。この危機の際、日銀の資産総額は110兆円(2008年9月)から123兆円(2009年末)に11%増加した。日銀は漫然と事態を観察していたのみだった(P108~110)

 

【第4章】

(トレンドの定義・サイクルの長さ)(P113)

 大ローテーション      小ローテーション

・株式:+30%、-20%    ・長期金利:±1.5%(変化幅)

・不動産:±20%        ・為替:±15%

・金・原油:±20%       ・CRB(商品総合指数):±15%

 2006年5月、商品相場が天井を付けた後、長く幅のある大きな下降トレンドに入っていたはずだが、その下降トレンドは2007年1月に終了し、驚くべき急上昇となった。その原因は、中国等の新興国の経済が急成長したことによる資源インフレとされる。相場ローテーション的には、最初のボトム2007年1月は、不動産のピークと一致しており、不動産から商品にお金が流れたものだろう。米国景気が失速しても、新興国の発展は止めようがなく、その結果商品市場の上昇も続くというのが新しい見方だった。やがて、商品市場の上昇が世界中にインフレをまき散らした。その結果、2008年5月欧州は政策金利の引き上げを断行した。そこで世界の投資家は、協調体制の足並みの乱れを察知して、同様の条件のもと発生した1987年10月のブラックマンデーを思い出した(P125~126)

(9つの法則とデータ)(P127~138)

①米国REIT指数が高値から15%以上下落すると、その時点から1年以内に、米国株は高値から20%以上の下落となる。NA-REIT指数が過去3回大きな山をつけた後、米国株も必ず下降トレンドに入った

②米国株が20%以上下落すると、日本株も20%以上下落する。米国で発生した10回の下降トレンド(20%以上の株価下落)に前後して、日本株は8回、20%以上下落した。例外は、1980年2月~3月(22%下落)と1980年11月~82年8月(28%下落)

③米国が利上げしてから、平均7月後にドル高・円安へと方向転換する。変動相場制後、米国は9回、引き締めを行った。うち8回は、タイムラグを伴いながらドル高・円安にトレンドの方向転換を生み出した

④米国が利上げ期間にあっても、利上げ開始後平均2年3月後には、ドル安円高へと方向転換する

⑤米国長期金利がボトムアウトしてから、平均1年4月後、ドル高円安の転換する

⑥CRB指数がピークアウトしてから、平均1年半後に、ドル安円高に方向転換する。CRB指数がボトムアウトしてから、平均2年4月後にドル高円安に転換する

⑦円はユーロに遅れて循環し、対ドルで見て、円の安値はユーロの安値から1年11月以内に、円の安値はユーロの高値から1年2月以内に訪れる

円高の時代こそ、日本株投資に有利になる。1987年~88年、1995年、1998年(ロシア危機)のどのケースでも、円高が進む中で、日本株は大底をつけ、そこから85%、56%、62%の上昇を遂げている

⑨米国不動産市場の上昇は、日米欧の協調利下げから始まる

 

(法則検証)(P127~138)

①2007年6月末、NA-REIT指数は、高値から15%下落が発生。2007年10月をピークとして、米国株は1年5月、56%の下落トレンドに転換した

②米国株ピークは2007年10月(以後56%下落)、日本株は2007年10月(同61%)。先行指標でなければ意味がないかな?

③2004年6月、米国引き締め転換、ドル円2005年1月転換。ドル円は米国2年物金利との金利差の動きで説明できる(田中泰輔)と同じこと

④⑤⑥は、ドル円は2年物金利金利差で説明できるとすれば、法則④⑤⑥は意味がなくなる

⑦は、どれほど使えるか検証が必要

⑧も検証が必要

⑨は、どういう使い方ができるかわからない

 

【第5章】

(基本的経済観)(P142~144)

①資本主義社会は、休むことなく発展し、その勢力範囲を地球の果てまで広げ続ける

②発展の中で、景気の拡大と後退は、絶えることなく循環を繰り返す

⇒永久的な不況、果てしないインフレ等の絶望的な予測は間違っている

 

 米国では1929~2001の13回の景気後退では、20%の下落を生じた10回のうち、その後の反発ではすべてのケースにおいて50%以上の回復を見せている。その10回ともに、景気の山から2月~1年8月遅れ、平均9月遅れで株価は安値をつけた(P146~148)

 1955年以降、FRBは15回金融政策を引締めたが、うち9回は景気後退を引き起こした。引締開始~景気後退開始:平均1年9月、min10月、Max2年10月(P152~154)

 

【第6章】(略)

【第7章】

 現時点(2009年4月)で、米国経済が直面する最大の問題はデフレである。カネをばらまけと無責任に叫ぶ人がいるが、その金が政府の金なら財政赤字になるし、お札を刷るにしても、ばら撒く先は銀行でしかなく、その金は国債に変わるだけで人々の手に届くわけではない。残された道は、現在の新興国と同様に、通貨を切り下げ、輸出競争力を2 取り戻し、海外から利益を獲得していくほかない(P219~221)

◎著者の認識は、当時と現在では異なっているのではないか?

 

【第8章】

予測①:今回の米国の景気回復のピークは、2014年4月頃となる

予測②:米国の不動産REIT市場は、2013年4~5月頃にピークをつける

予測③:米国株は、2014年1~3月頃にピークをつける

予測④:米国株のピークはS&Pで1623ポイントあたりで、ボトムから141%(2.4倍)

予測⑤:米国株のピーク前後で日本株もピークをつけるが、水準は17400円~19600円

予測⑥:米国の本格的な利上げは2012年以降となる

予測⑦:米国信用リスクは、2012年後半~2013年前半にボトムアウトする

予測⑧:ドルの大底確認は米国の量的緩和策が終了してからで、2012年以降にずれ込む

 

 1929年、1973年、2001年のデータから次式が得られる(P244)

   Y       =   7.3115X  ー 268.7  

(その後の株価上昇率) (株価の下落率)

7.3115✖56%-268.73=141%(予測④)

Y(日経平均株価)=13.884 ✖ S&P ー 3970.8

Y = 13.884 ✖ 1623 ー3970.8 =18563 (予測⑤) (P248~249)

 

【終章】

 何人かの人々が、同じ感覚を保有し、同じ行動をとるところから、マーケットにトレンドが生まれる。そのトレンドは次々と賛同者を集め、大きな相場へと成長していく。やがて飽和点に達し、多数が少数に変わっていく(転換点)。多数が少数に、少数が多数に延々と循環していくのがマーケットの永久運動。この運動の中で、ある時はトレンドに乗り、ある時はトレンドから離れる。それが人と違う選択をすること、即ちリスクを取るということの本質である(P271~272)

(マネーの鉄則)(P272~283)

鉄則①:マクロとマーケットの違いを知れ

鉄則②:物事が起こる順番を知れ

鉄則③:最低でもこれだけの市場を見ておくべし

鉄則④:止まった時計は見ないで捨てよ

 止まった時計とは、己の信念に頑なな「専門家」のこと(P281) 

 昇りきった梯子(成功体験)はすぐに捨てなければならない(P284)

 

 

 

 

ゼロ金利との闘い 植田和男著 2005年12月日本経済新聞社刊

(目次)

まえがき

第1章 マクロ経済・金融情勢 概観

第2章 ゼロ金利周辺における金融政策 鳥瞰図

第3章 1998年から2005年までの日銀(およびFED)の金融政策

第4章 時間軸政策の導入

第5章 学界における金融政策論議と時間軸政策

第6章 時間軸政策の効果の実証分析

第7章 短期金融市場における金融政策の効果

第8章 「失われた10年」のマクロ経済学

第9章 構造問題と金融政策

あとがきに代えて 残された論点、これからの論点

 

【まえがき】

 1998年4月の新日銀法施行から直近(2005年11月)における日本銀行が実施した政策は主に3種類である。特に時間軸政策は、ゼロ金利制約に直面した日本銀行がさらに一段の金融緩和効果を狙って考え出した政策であり、将来の金融緩和の前借といえる。

ゼロ金利政策量的緩和政策両方に含まれる時間軸政策

②ゼロ金利を実現するのに必要な以上の流動性の供給

③非伝統的ともいえるさまざまな資産の購入(P1~2)

 こうした政策の効果が、デフレを早めに終結させるに至らなかったという意味で思ったほどではなかったのは、日本経済の様々な主体が「構造調整」の過程にあったからである。特に金融機関は、株価、地価の下落、不良債権の急増等により、深刻な自己資本制約に直面した。これがしばしば深刻な信用危機、流動性危機につながり、金融システムの金融仲介能力が著しく傷ついた(P2~3)

 

【第1章】

 マネタリーベース(日銀券+硬貨+日銀当座預金)やマネーサプライ(M2+CD、流通現金+銀行預金+CD)が95年後半ごろから増加傾向を示しているのに対し、物価やGDPは緩やかな下落トレンドに入っている。単純なマネタリズムの主張は、この時期の日本経済には当てはまらない(P15~19)

 本来のマネタリズムの主張は、金融政策が経済の攪乱要因にならないためにはマネーの伸び率を一定にするような政策を目指すのがよいとの主張だった(P21)

 マネタリーベースの上昇にもかかわらず名目GDPは低迷を続けたので、1990年代半ば以降流通速度は低下を続けている。経済に出回った貨幣が働かずに滞留し、しかもその度合いが悪化している(P21)

 通常、経済におけるマネーの量が増えると、金利が低下し、これが経済活動を刺激する。しかし1991年から1995年までの金融緩和でオーバーナイト物コールレートは0.5%前後へと低下し、一段の低下余地はほとんどなくなってしまっていた。コールレートを低下させることが金融緩和の出発点だとすれば、1995年後半以降、日銀は金融緩和の手段をほとんど失っていた。いわゆる名目金利のゼロ制約に日銀は直面していた(P21~22)

 加えて、銀行貸出残高の伸び率は1990年頃まで高い伸びを示した後、90年代半ばにかけて伸びを急速に低下させ、1997~98年以降はマイナスの伸び率に終始した。1990年代以降の日本の銀行システムの不安定性の大まかな原因は、資産価格バブル、1980年代の金融規制緩和のあり方等が不動産関連融資を積極化させ、その後の資産価格の低下が借りて、貸し手双方の財務状態を悪化させた。融資は不良債権化し、銀行保有の株式の含み益は大きく減少した。大手行の自己資本比率は8~10%で推移し、ぎりぎりBIS規制を満たすに過ぎなかった。このため彼らには積極的な不良債権処理が困難だった。他方、政府も大規模な公的資本投入への政治的合意をつくれずにいた(P22~23)

 この状況下で、1997~98年の金融危機が発生した。1997年秋に三洋証券がコール市場でデフォルトを起こすと、金融市場には不安心理が広がり、他の金融機関の破綻、リスク・プレミアム、流動性需要の急上昇につながった。1998年秋にもLTCM(米ヘッジファンド)の事実上の破綻に伴う混乱が日本にも波及し、深刻な流動性、信用不安が発生した(P23~24)

 政府は、ようやく銀行システムへのある程度規模の公的資金投入を実施し、危機はいったん沈静化した。しかし、2002年度にかけての株価下落で再び自己資本比率が低下し、金融システムに不安感が広がった。事態の本格的な改善は、2003年のりそな銀行足利銀行の処理、株価、都市圏地価の反転を待たなくてはいいけなかった(P24~25)

 ギリギリの自己資本しか持たなかった銀行は、リスクをとって新しい貸出を伸ばしていく力が不十分であり、金融システムの金融仲介能力は大きく低下した。このため低金利は続いたものの銀行貸出→設備投資というチャンネルでの刺激効果が限られていた(P25~26)

 

【第2章】

(ゼロ金利下での一段の金融緩和政策)(P30~34)

①将来の金融政策ないし短期金利についての予想のコントロール

 将来の金融政策経路について何らかのコミットメント(約束)をすることによって、そうでない場合とは異なった水準に、将来短期金利の予想値、従って現在の短期金利を誘導すること。近い将来の短期金利予想は低下するので、短期から中期ゾーンの金利は低下する。この政策が成功してかなり先の経済は好転するという期待が生まれれば、ある満期から先の長期金利は上昇する(イールド・カーブはスティープ化する)

②特定の資産の大量購入

 ある特定の資産を大量に購入して、その資産価格に影響を与えようとする政策。

 ツイスト・オペ(ある資産購入とともに他の資産を売却)等中央銀行のBSを拡大しないで構成要素間の比率を変える点で、③と異なる。オペ対象資産のリスク・プレミアムに影響を与えようとする試み

中央銀行のBSの規模の拡張

 おおまかにはマネタリーベースを増大させる政策。金利がほぼゼロとなった短期国債を買い続ける政策。

③ー1 高水準のマネタリーベースそのものが、民間部門のPFリバランスを引き起こす

③ー2 ①の政策における期待硬貨を強める

③ー3 貨幣発行益を政府にもたらす可能性

 

 金融システム不安問題や民間金融機関の資本不足に対しては、本来政府によってなされるべきだが、政府サイドの対応の仕組みが整うまでは、中央銀行が民間金融機関への資本注入に実質的に等しいオペレーションを実施する例もある(P35)

 最後の貸し手機能(LLR:Lender of Last Resort)は中央銀行金融危機時に出動を期待されている役割である。債務超過でない金融機関が、金融危機に伴う流動性の枯渇によって倒産をすることを防ぐために、中央銀行が当該金融機関に貸し付けを実施する機能。流動性需要の高まりに対して資金供給増で応じなければ、金利が上昇するリスクがある。よって、金利を政策手段として用いている中央銀行では、この機能は自動的に発動される。万全を期すため、通常は流動性需要の高まり以上に資金供給する(政策金利を引き下げる)という対応がなされることが多い(P36)

 

【第3章】

1998.9.9  無担保コールレート翌日物の0.25%への引き下げ

      ⇔ロシア危機等に伴う世界的な金融不安の高まり、経済情勢悪化に対応

1998.11.13 CPオペ積極活用、臨時貸出制度の創設、社債等の適格担保化

1999.2.12 コールレートを0.15%~できるだけ低めに促す(ゼロ金利視野の緩和措置)

1999.4.9  ゼロ金利継続の合意

 ゼロ金利政策=ゼロ金利+ゼロ金利をデフレ懸念払しょくまで継続するとのコミットメント(時間軸政策)(本書の用語)(P43)

(FEDの金融政策)(P52~54)

2003.6.25 FFレートを1.25%→1.005に引き下げ。「委員会は緩和政策が当分の間(for a considerable period)続けれられるものと考える」(委員会後声明文)

2004.1.27~28 FFレート継続。「辛抱強く緩和政策を続けた上で、その解除に臨む」

2004.5.4 「緩和政策はおそらくゆっくり(整然)と解除されていくだろう」

2004.6.30 FFレート引き上げ開始

テーラー・ルール (P56~57)

 FFレートがインフレとGDPギャップで決まる(規範的な意味を持つ)

 短期金利=インフレ率+均衡での実質金利+α+β

 α:自然失業率-現実の失業率 β:インフレ率-目標インフレ率

 

【第4章】(略)

【第5章】

クルーグマンの議論のエッセンス)(P76~77)

 金利ゼロの世界では、中央銀行がマネタリーベースを増やしても、金利ゼロの資産(マネタリーベース)を金利ゼロの別の資産(国債)とスワップするだけなので何の実体的効果もない。(=単純な一時的な量的緩和は効かない)総需要を金融政策で刺激するためには、実質金利名目金利ーインフレ期待)を下げる必要があるが、金利ゼロの世界では、インフレ期待を起こすしかない。→持続的なマネタリーベースの引き上げが必要である。→将来の物価水準が上昇するという期待が生まれ、現在から将来にかけてはインフレ期待が生まれる

クルーグマンの主張の弱点と修正)(P78)

 持続的なマネーの供給の約束が期待物価水準を上げるという仮定=マネーを供給していれば、いつかは物価水準が上がるという主張に等しい

 現在は投資機会の減少に伴って経済は流動性の罠にあるが、何年、何十年後には新しい投資機会が生まれる。すると将来のどこかで経済は流動性のわなから脱出し、その状態でのマネタリーベースの増加は物価を上昇させるはずだ。よって、未来永劫にマネタリーベースを増やすことを約束すれば、将来の物価水準の期待値、同時に現在から将来にかけての期待インフレ率は上昇する。この結果、実質金利が今日下がり、今日の総需要が刺激される

クルーグマン説の金利的表現)(P79~80)

 流動性の罠を脱した後の金利水準を、通常より低めで推移させるという約束を今することによって、将来の物価水準の期待値を上げるという政策

「金融政策を名目金利の観点から見れば、経済が上昇基調に入り、物価が上がり始めても金利を上げないと約束するだけでよい」(クルーグマン

◎要するに、クルーグマン量的緩和政策は、当初、「量的緩和」として主張されたが、むしろ「金利」をキーワードとして整理したほうが分かり易いということだ。その意味で「時間軸政策」は「量的緩和論」を「金利」で再構築した理論だ

(期待を操作する政策の弱点)(P91~94)

流動性の罠に陥った後では、完全に自力(金融政策)のみではデフレを克服する道具たり得ない

流動性の罠脱出後に「より緩和的スタンス」を採用するという約束を守れば、望ましいインフレ率を超えてインフレ率が上昇するリスクがある

③したがって、①の約束を破る誘因が存在する

 

【第6章】(略)

【第7章】

 第6章、第7章の実証分析によれば、時間軸のコミットメントは、かなりはっきりとした影響を様々な金利に及ぼした。第2章①の政策の有効性を示した。一方、②③政策の有効性ははっきりしない(P130~132)

 マネーの量が増えれば購買力が上がり、支出が増えるというのは単純な誤解である。日銀がオペで流動性を増やすのは、その他の資産(短期国債等)を購入することによってである。これは等価交換であるので、民間の総資産は増大しない。日銀券のほうが短期国債より流動性が高いので通常は支出を刺激する効果がある。しかし、短期金利がゼロになった後でもこの効果が残っているかは疑わしい(P133~134)

 

【第8章】

実体経済の停滞・一般物価の下落・資産価格の下落)(P141)

 実質GDP成長率は、1991~2002年の年平均1%であり、同時期のOECD諸国2.4%等を大きく下回り、実体経済は「停滞」していた

 一般物価の下落率は緩やかなものにとどまっており、消費者物価は1998年のピークからの累積下落率は3%以下である。この緩やかな下落が日本経済停滞の根本的原因とは考えにくい

 この間の資産価格の下落は、東証株価指数や市街地価格指数がピークから70~80%下落するなど、大恐慌時に匹敵するほど深刻である。こうした資産価格の下落が日本の金融システムに深刻な打撃を与え、ひいては一般物価を含む実体経済全体に大きな影響を与えた可能性が高い

(生産性ショックの影響)(P153~156)

 開放経済の小国モデルでは、資本の限界生産性(利潤率)を長期的に低下させるようなショックが発生した場合、株価は瞬時に大幅に下落する。これに伴い投資も下落する。その後は、株価も投資も緩やかに回復過程に入るが、いずれも当初の水準を下回って推移するし、投資は資本減耗をカバーしきれず、資本ストックは減少を続ける。こうした動きがストップするのは、資本ストックが十分減少し、それによって資本の限界生産性が当初の水準を回復したときである

 1990年前後の日本に、何らかの理由で設備投資の期待利潤率or生産性上昇率の大幅かつ持続的な低下が生じたとすると、上記モデルによると、長期間にわたって投資と株価は低迷する

 当初のマイナスの生産性ショックは、次の可能性がある

①戦後続いた欧米経済へのキャッチアップの過程が1980年代のどこかで終了し、それに適していた社会・経済体制の歪みが露呈し、その変革を模索するフェーズに入った

②1980年代後半からの動きが、資産価格だけでなく設備投資の期待利潤率を含めてバブル(過度に楽観的)だった

 

 不良債権問題の深刻さとバブルのピーク時における企業部門の土地保有の程度(総資産に占める土地のシェア)との関係は、不動産業を含めた産業別にみると正の関係にある。資産価格の下落が不良債権問題をもたらしたとする仮説と整合的である(P159~160)

 金融システムの不安定性が実体経済に与えた影響の検出については、債務者のB/Sの悪化が当該企業の設備投資に有意な負の影響をもたらすのみならず、特に社債市場へのアクセスのない企業では、メインバンクのB/Sの悪化も当該企業の設備投資に有意な負の影響をもたらす。B/Sの悪化は、資産価格の下落や不良債権の増加(メインバンク)によって説明される。1990年代中盤以降の銀行貸出の減少は、1997~1998年における銀行の流動性危機とともに、債務者と銀行双方におけるこうしたB/Sの悪化によるところが大きい(永幡・関根2002)(P161~162)

 不安定な金融システムが経済に直接与えた悪影響は、1997~98年のクレジット・クランチ発生の時期に、最も深刻だった。アジア経済危機や1997年における早すぎた金融引締め、1998年のロシア危機が日本の金融危機の引き金となって、いくつかの金融機関が破綻したほか、広く金融市場全体で流動性需要やリスク・プレミアムが急上昇し、既に不良債権問題に苦しんでいた邦銀では資金調達が困難となった。このため邦銀の多くが企業からの資金回収を図り、大企業でさえクレジット・クランチの圧力を体感した。この時期、多くの企業が、年末以降は貸出のロール・オーバーに応じられないとの通告を取引先金融機関から受け、設備投資の削減を迫られている(P164)

 この経験に懲りて、非金融企業は、銀行への依存度を引き下げる行動に出たと見られる。1998年以降、企業部門の資金過不足動向は恒常的に資金余剰となっている。1997~98年の金融危機は、企業に対して過剰債務の危険性を一段と認識させ、債務返済、設備投資抑制の圧力をかけたと見ることができる(P165)

 

【第9章】

 1998年の金融危機時に、社債の発行額が増加している。しかし、その大部分はA格以上の企業のものであり、BB格以下のクラスの企業は、社債を発行することが困難であり、このグループの企業は、取引先銀行の財務状況悪化によって悪影響を被ってきた。米国では、1970年代後半からBB以下の格付け企業の社債(junk bond)発行市場が発達した。1980年代を通じて、1800社がこの市場で資金を調達した(P174~177)

 

【あとがきに代えて】

 日本経済の停滞を長く深刻なものにし、その後の金融政策を難しくしたのは、1997~98年の金融危機である。1992~96年のどこかで抜本的な金融システム対策を実施すべきだった。1997~98年時点でも、ゼロ金利政策量的緩和政策に含まれる時間軸政策は、金融政策としてだけでなく、金融システムが問題を抱える中で流動性危機を和らげる働きをした。そうであれば、せめてこの政策を1998年夏に実施できなかったのだろうか。日銀政策委員会でも、1998年4月~7月に、思い切った金融政策採用の是非が繰り返し議論されている。ゼロ金利への誘導や時間軸政策の採用は、1999年前半になったが、せめて半年早ければとの思いがある(P188~189)

 量的緩和策は、ゼロ金利をインフレ率が安定的にゼロ%以上になるまで続けるという時間軸政策と、ゼロ金利実現に必要な以上の流動性供給を実施する政策の組み合わせである。この政策を止めるのが出口だとすれば、出口を出れば操作目標は金利に戻る。時間軸政策も止めて金利はプラスになる。長期国債買いオペの金額も減らすのが自然な姿だろう(P190)

 2003年10月、日銀は量的緩和策からの出口のタイミングを決める条件を明確化した。出口の必要条件は次の2つだ。

①足元のコアCPIインフレ率の基調的な動きがゼロを上回ること

②将来のインフレ率の見通しがプラスであること

 これらの条件は、2005年末ないし06年の早い段階で満たされよう。その上でどうするかは、中央銀行としてのリスク・マネジメントの問題である。長期的に望ましいインフレ率がゼロよりもかなり上(2%前後)とすれば、インフレ率がゼロ%を越えた後、多少加速して上昇するのはある意味望ましいとも言える。よって量的緩和解除の判断に際しては、若干の辛抱をしても日銀にとって損はない(P192~193)

 出口のタイミングを決めるためには、中期的に望ましいインフレ率はどのあたりか、そこへどのような戦略で近づこうとするのかという点の判断が不可欠である。目標インフレ率を表明すれば足りるわけではない。出口の時点でのインフレ率と長期的に望ましいインフレ率には大きなギャップが存在し、それをどうやって埋めるかという点についての説明が必要である。インフレ率だけに注目を集めすぎるのも、中央銀行として得策かどうかも難しい問題である。こうした点の考察とそれへの対応は、日銀にとって避けて通れない課題である(P194~195)

 

 

 

  

糖尿病は薬なしで治せる 渡邊昌著 2004年9月角川書店刊

(目次)

はじめに

第1章 「糖尿病」と診断されて

第2章 わが糖尿病体験を語る 食事編

第3章 わが糖尿病体験を語る 血糖モニター編

第4章 わが糖尿病体験を語る 運動編

第5章 区別が必要な「高血糖症」と「糖尿病」

第6章 メタボリックシンドロームとしての糖尿病

第7章 糖尿病薬の作用と副作用

第8章 治療法の選択肢

第9章 天寿を全うする知恵

おわりに

 

【第1章】

 私(著者)が糖尿病と医師に宣告されたのは53歳の夏。空腹時血糖値が血液100ml中260㎎。ヘモグロビンA1cが12.8%(P16~18)

 健常者は、食後、最高でも180㎎程度に抑えられ、2時間経過で元の値(70~110㎎)に戻る(P30)

 

【第2章】

 ブドウ糖は、体全体のエネルギーの元なので、不足はまずい。70㎎/100ml程度は必要。これ以下だと、低血糖の症状、寒気や震えが出て、失神、昏睡に至る(P36)

 細胞内にブドウ糖が取り込まれるには、インスリンが必要。細胞膜には、インスリンレセプター(インスリン受容体)があり、インスリンを感知してキャッチする。インスリンをキャッチすると、細胞内のセンサーが反応して、GLUTブドウ糖トランスポーター)を細胞表面に押し出して、ブドウ糖が細胞内に流れ込む(P37)

 糖尿病は、インスリンが足りなくなって、細胞内にうまくブドウ糖を取り込めなくなったために起きる病気。中年以降に発症する2型糖尿病は、膵臓が疲れて、インスリンの分泌能力が衰えているが、まったくインスリンが分泌されないわけではない(P38)

 血糖値を低く抑えるために、摂取カロリーを低く抑える必要がある。医師と相談して、とりあえず、1日の摂取カロリーを1600キロカロリーと決めた。制限カロリーを守るために、脂肪の摂りすぎを抑えた(P41~43)

◎2型糖尿病では、インスリンの出が悪くなっている、あるいはインスリン受容体が十分に機能していない状態にある。直接的には、摂取カロリーの問題というより、摂取する糖の量が多すぎて、膵臓が疲れた状態にある。なので、(必要な量の糖を確保しつつ)糖の摂取を制限することでカロリーを制限するという方向になるべきだろう。

 

【第3章】

 食べ始めて30分くらいで、ものによっては1時間くらいで、血糖値がピークになる。ピーク時には、血糖値が250~300㎎/100mlになるが、運動をすれば50~100㎎/100ml下がった。食後眠くなるときは血糖値が300㎎/100ml近くになっていた。糖尿病患者は、軽く300㎎/100ml以上に上がり、2時間たっても200㎎/100mlある(P58)

 GI値は、食後2時間、あるいは3時間の血糖の状態で決められている。GI値が低いはずのスパゲッティを夕食に食べると、翌朝の血糖値がいつもより高い。スパゲッティは消化・吸収に時間がかかり、2~3時間値は低くても、その後徐々に消化されて、夜中に吸収されるので、翌朝の血糖値が高くなる。なので、GI値だけで食べ物を選ぶのは時機尚早である(P61~62)

 

【第4章】

 糖尿病の合併症は、ヘモグロビンA1cが9%以下で、その危険性が急激に減る(P73)

◎P72の図を見る限り、7%を超えたあたりから急激にリスクが大きくなる。

 

 運動が血糖値を下げる効果は予想以上で、昼はそこそこいいが、夕食後2時間の8時頃は、200㎎/100ml以上ある場合がしばしばあった。30分ウオーキングするだけで、血糖値は120~130に落ちた。そうやって、夜間の血糖値を低く抑えるのがヘモグロビンA1cを低く保つ(P75~76)

 食前の運動より食後の運動のほうが効果的。激しい運動をすると、その分肝臓のグリコーゲンの分解が増えて、逆に血糖値が上がる。よって食後30分歩くのが血糖コントロールに一番いい(P82~83)

 

【第5章】

 血糖値が高いだけで、まだ合併症や他の症状が出ていない場合は、高血糖症と呼び、合併症等が出ている場合のみ糖尿病と呼ぶべき(P86)

 糖尿病診断基準の空腹時126㎎/100mlという値は、欧米の糖尿病疫学研究をベースとしている(P89)

 

【第6章】

 インスリン抵抗性とは、細胞膜のインスリン受容体の感度低下により、インスリンの利用が不十分な状態。インスリン抵抗性が増すと、膵臓がより多くのインスリンを分泌し、結果的に膵臓のランゲルハンス島β細胞の疲労を招き、糖尿病の引き金となる(P105)

 脂肪が増えると、脂肪細胞は、レプチン(ホルモン)を分泌し、満腹中枢(脳視床下部)を刺激し、食欲を低下させ、消費エネルギーを増やす。肥満では、レプチンが満腹中枢と反応しなくなり、肝臓や血管に働いて非アルコール性脂肪肝炎動脈硬化を促進する(P105)

 メタボリックシンドロームは、肥満が基礎にあり、高脂血症、高血圧、高血糖の症状として表れる。なので基本的な食事療法、運動療法が、個別の治療に先行すべきであり、個別の症状に対する薬物療法高脂血症薬、血圧降下剤、血糖降下剤)は問題が多い(P108)

 

【第7章】

αグルコシダーゼ阻害剤(P118~119)

 腸からの糖質の吸収を阻害。小腸粘膜に局在する二糖類の分解酵素の作用を阻害してブドウ糖の吸収を抑える。アカルボーズ、ボグリボース

 分解しきれなかったオリゴ糖は、腸内細菌の餌になる。放屁、下痢、便秘、低血糖症状(腸閉塞様症状、肝機能障害)

尿素材(SU剤、スルホニル尿素剤)(P119~121)

 β細胞を刺激し、インスリンの生産を高める。

 グリクラジド、グリベンクラミド、トルブタミド

 弱っている膵臓をさらに鞭うつ→数年内に膵臓の機能廃退→インスリン注射に移行

ビグアナイト剤(P121~122)

 膵臓の機能とは無関係に作用し、肝臓の糖新生を抑制、解糖作用を刺激し、腸管からのブドウ糖吸収を抑制。ブドウ糖は肝臓にグリコーゲンとして一時貯蔵。筋肉、脂肪へのブドウ糖取り込みを促進。AMPキナーゼを活性化(運動による効果を薬で得る)インスリンレセプターの感受性をあげる。塩酸メトホルミン。重大な副作用として、血中乳酸値上昇による乳酸アソドーシス、胃腸症状、倦怠感、筋肉痛、過呼吸低血糖。長期投与によるビタミン12吸収低下。劇症肝炎

 合併症を防ぐためには、血圧を正常範囲にすることで、血糖を下げる以上の効果が得られる(英での研究)(P129)

◎マリゼブ錠:持続性選択的DPP-4阻害剤(インクレチンを分解する酵素を阻害)

 

【第8章】

 耐糖能異常者3千人を3年間追跡。1年あたりの糖尿病発生率を比較(米国の研究)

①生活習慣を改善させる群4.8%、②メトホルミン投与群7.8%、③プラセボ服用群11%(P139~140)

ヘモグロビンA1c:7%→空腹時血糖値150

          8%       200

          9%        300

        11%       400 (P142)

【第9章】(略)